言語を通して世界を見ると・・・

情報環世界

 こちらはドミニク・チェンさんのお話です。

 言語によって立ち上がる環世界が変わるなど、興味深かったです。

 

P92

 まず、人間という種の間で環世界は共通といえるのでしょうか。・・・基本的な身体構造はみんなほとんど同じだとはいえ、多様な文化や言語圏に属するそれぞれの人々が独自の世界の認識のしかたを作り出しているとも言えます。・・・

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 自然言語は、そういう個々の相違を吸収してコミュニケーションを図ることを可能にするために作られた共通の通信規約の役割を果たしています。・・・考えていること、感じていることを情報として外部化することで、他者にパッケージとして渡すことができるようになったというわけです。

 つまり、互いの環世界の固有性を超えて、相互に開かれた状態で影響しあえるようになったおかげで、時には世代や距離を超えて、互いの「世界のありよう」の認識を拡げることができるようになったのです。・・・

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 人類は有史以来、このような素晴らしい情報化のツールを鍛えてきたわけですが、それでも現代社会においてはコミュニケーションの問題が後を絶ちません。どの国を見ても、SNSで疲弊する人がいて、わたしたちは情報の海にさらされながら、表現することよりも知識を吸収することに追われています。・・・

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 それでも、だからといってインターネットやデジタル・テクノロジーに問題の責任をすべて押し付けるというのも単純に過ぎるでしょう。違う観点から見れば、インターネットが普及したおかげで、世界中の人々がコミュニケーションを取り合う垣根が事実上消滅し、そのおかげで今まで以上に効果的に学習を行えたり、共通の関心を持つ人間がコミュニティを作れるようになったり、というように、新しい社会的な可能性がたくさん顕在化しているとも言えるからです。

 それではこの複雑な状況に対して、どのように考えれば良いのでしょうか。

 統計学者のハンス・ロスリングは、ニュースメディアはネガティブなことばかり報道する傾向があるということを指摘し、世界中の統計データをつぶさに見ていけば、むしろポジティブな事実のほうが多いと主張しました。・・・

 確かに、わたしもNHKの報道番組に一年間レギュラーで出演していた時に、ポジティブなニュースを提案しては「面白そうだけど確定的ではない」という理由で却下されるということを何度も体験し、マスメディアのあり方に疑問を抱きました。

 対象が科学にせよ文化にせよ、良い変化の兆候は、誰の眼にも明らかな成果とならないと理解されにくいのです。つまり、微小な差異の地味な積み重ねは、変化として認知されづらい。複雑なことを単純化しないと受け止められないという、人間に共通する認知的な限界は、世界をポジティブとネガティブの二項だけではなく、敵と味方にも分類し、「味方陣営の情報しか受け止めない」という「フィルターバブル」を生み出す根本的な原因のひとつとしても捉えられるでしょう。

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 それでは、わたしたちはどのようにして、コミュニケーションのテクノロジーをもっと上手に使い、世界の豊かさに気づけるようになるのでしょうか。・・・

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 ユクスキュルの、生物学的な意味における環世界の解説は、生命に固有の身体に結びついた知覚レベルの話でした。わたしたちはここで、環世界をより働きかけ可能な対象として捉えるために、「文化の違い」ということも環世界的に語れるのではないでしょうか。

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 言語的相対論とも呼ばれる「サピア=ウォーフ仮説」の考え方では、「言語の多様性とは、音韻や記号の多様性ではなくて、それらの言語を通して世界を見る方法の多様性だ」とされます。・・・わたしの中にもフランス語と日本語で異なる世界の構造の見え方、異なる無意識の質感が形成されたという感覚があります。

 つまり、日本語とフランス語や英語を使う時には、自分のなかで異なる環世界が立ち上がる感覚があるのです。特定の言語でしかうまく言えなかったりする感情もあります。わたしは例えば、料理の微妙な味わいを表現するのは日本語のほうが得意ですが、車を運転する時には自然にフランス語で悪態をつきます(笑)。・・・

 ・・・だから、旅をしたり、違う国に引っ越したりすることで、日常とは異なる世界認識に触れることは、自分の文化的な環世界を「移す」ことであると表現できるでしょう。

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 言語の構造によって世界を認識する方法が異なるという言語的相対論の考え方について先に見てきましたが、実際に言語研究のなかでとても興味深い概念があります。それが「共話」と呼ばれる、日本語において特徴的な話法です。たとえば、二人の話者がいて、一人が「ねえねえ、今日の宿題さぁ……」とフレーズを未完成のまま相手に放り投げる。するともうひとりが相手の表情から意図を推測して「うん、わたしも終わってないんだよねぇ……」と受け取って、完成させる。このように、途中であいづちを打ったり、打たせたりしながら、協働して会話を進めるのが共話(synlogue)です。

 ・・・英語では話者が独立してフレーズを組み上げるのに対して、日本語では話者同士が協働しながら組み立てる、という違いです。英語はegocentic、つまり自己が起点となって世界を記述する言語であると言われていますが、日本語では反射代名詞といって、「自分」「手前」「ぼく」など、一つの人称が一人称でも二人称でもあるということがあるくらい、自己と他者の境界が曖昧です。・・・日本語の共話性の成立には、フレーズを未完成のまま相手に預けるという話し方、そして相手の話にあいづちを打ち、かつ、相手にも自分にあいづちを打たせる、といったことが重要である・・・