情報環世界 身体とAIの間であそぶガイドブック

情報環世界

 

 こちらは伊藤亜紗さんのお話です。

 知覚と運動が連動しているから主体感を感じられるということ、考えたこともなかったことに驚きました。

 

P18

「情報環世界」という言葉を通して考えたい大きなテーマのひとつに、「フィルターバブル」の問題があります。フィルターバブルとはアクティビストのイーライ・パリサーが、著書『閉じこもるインターネット』の中で提唱した造語。・・・フィルターバブル問題とは、インターネットによって、私たちはつながるのではなくむしろ分断されているのではないか、ということです。

 ご存知のとおり、Googleなどの検索サイトの検索結果は、ユーザーの履歴にもとづいて選択的に表示されています。その結果、ユーザーは自分にとって好ましい情報にばかり触れ、好ましくない情報を知らず知らずのうちに遠ざけることになる。こうして、私たちは、好ましいものだけを通る「フィルター」の皮膜=バブルの中に閉じこもるようになってきている、というわけです。

 このような事態が進行しているなかで、私たちは情報技術とどのように付き合い、今後どのように使いこなしていけばよいのか。そのような問題意識がこの研究会の発端にありました。

 ・・・

 そこで考えたいのが「身体」の問題です。なぜなら身体こそ、私たちを特定のバブルに閉じ込めるもっとも根本的な要因であると考えられるからです。

 ・・・

 私はふだん、いろいろな障害をもった方にインタビューをしながら、その人がその身体をどんなふうに使い、その身体でどんなふうに世界を認識しているのかについて研究しています。まさに、身体の条件によって異なる環世界のあり方を解明することが、私の研究テーマです。

 以前、西島玲那さんという全盲の女性にお話を聞いたことがあります。インタビュー当時三〇代で、見えなくなってからすでに約一〇年が経っていました。

 通例にならって、まずはその一〇年間の変化について詳しく話を聞いていきました。ところが、彼女の答え方には、明らかにちょっと変わった点がありました。何と、手元でメモをとりながら質問に答えるのです。

 繰り返しますが、彼女は全盲です。にもかかわらず、「高校生のときはこうで……」と紙に年表のようなものを書きながらしゃべる。当然視覚的には見えていないのですが、玲那さん曰く「自分は話がすごくとっ散らかるので、そうならないように、メモを取りながら話している」と。メモをとりながらしゃべることは、彼女にとっては習慣の一つになっているそうです。

 重要なのは、彼女が、「メモを書くことによって考えが整理される」と述べていること。つまり玲那さんは、単に「見えていた時の習慣で鉛筆を動かしている」だけではないのです。

 ・・・

 ・・・彼女の「メモをとる」は、そうした「手が覚えている運動を再生すること」とは違う。メモを書くことによって、実際に目が見える人がメモをとるときと同じように、考えが整理されているのです。つまり、彼女は見ながら書いているのです。

 どういうことか。それがよくわかるのは、彼女がしゃべりながら、しばしば自分が書いた文字にアンダーラインを引いたり、丸で囲んだりすることです。その間、彼女が手で紙の上の筆跡を触って確認することは一切なし。何の迷いもなく、自分が数分前に書いた文字の場所に、正しくリーチできるのです。

 ・・・

 ・・・玲那さんは、単に見えていたときにやっていた運動を再生しているのではない。明らかに、自分が書いたものを頭の中で空間的にイメージしながら、そのイメージを見て、見た結果を書く運動にフィールドバックさせながら、自分のメモを完成させています。書くという運動そのものだけでなく、書くという運動の機能もそのまま真空パックされている。見えなくなって一〇年経っても、その能力を保持していることに驚かざるを得ません。

 ではなぜ、玲那さんは一〇年もその能力を保持し続けているのか。・・・

 玲那さんは、見えなくなってから、毎日が「はとバスツアー」になっちゃったと言います。「『ちょっと坂道になっています』とか、毎日毎日はとバスツアーに乗っている感じが、盲の世界の窮屈なところだったんですけど、それに慣れていくんです。そうやって言語化したものから理解するコツがわかってくると、覚えようとしなくても、頭に入ってくるようになった。色についても、青そのものの感覚より、そういう「〇〇のような青」という言葉のほうが先に立つようになってきたんです」。

 つまり玲那さんは、見えなくなったことによって、自分の身体で感じたことよりも、介助者=バスガイドの言葉を手がかりにして、行動せざるを得なくなったのです。介助者が「坂になっている」と言うから歩幅を調整したり、「飲み物がある」と言うから手をのばしたりする。「知覚して動く」のがそれまでの見えていた世界だとすれば、「知覚なしで動く」「他者の言葉をキューにして動く」のが、見えない世界だということです。

 ・・・

 見えなくなったことで玲那さんに起こったのは、ひとことで言えば、知覚という「インプット」と、運動という「アウトプット」の分離だと整理することができます。見えないことによって、どうしても知覚=インプットに時間がかかったり、不正確になったりすることがある。そこに介助者の言葉というシグナルが外部から唐突に入ってきて、運動=アウトプットを発動させる。このときの運動=アウトプットは、玲那さん自身の知覚=インプットとは切り離されています。

 本来、私たちの知覚=インプットと運動=アウトプットは、密接に連動しています。・・・身体とは、まさに両者を連動させる場であると言えます。運動が知覚を構造化し、知覚が運動を構造化しています。

 実はユクスキュルが環世界を論じる際に重視していたのも、まさにこのインプットとアウトプットの連動なのです。ユクスキュルにおいて、インプットとアウトプットが連動している存在は「主体」と呼ばれ、主体であるかぎりにおいて自分の環世界を持つとされます。・・・

 ・・・

 玲那さんの話題に話を戻しましょう。玲那さんは、見えなくなってからの「はとバスツアー」な生活のなかで、これまでのようにはインプットとアウトプットが連動しなくなるという変化を経験します。介助者の言葉に助けられつつも、言葉によって、知覚と運動が切り離されていきます。

 このインプットとアウトプットの分離は、玲那さんにとって、まさにユクスキュルが語っていたような「主体」を喪失する経験でした。玲那さんはこう語っています。

 

 目が見えなくなって、とっ散らかったんですよね。自分の自我が崩壊するというか、分裂したんです。いろんな側面を持っていないと、いろんな人のガイドを受け入れられない。大人になってからの九年ほどは、そのことにすごく苦悩しました。本人が言っているわけではないけれど、「障害者は障害者らしく」みたいなものがあって、「いや、大丈夫です」と言うことが失礼にあたるんじゃないかということをどこか頭で考えていた。楽なんだけど楽じゃないという感じがあった。

 

 障害者として生きるためには、「いろいろな人のガイドを受け入れ」られる必要がある。つまり客体としての柔軟性を高める必要があります。柔軟性を高めることそれ自体は悪いことではないけれど、玲那さんはそうしようとするあまり「自我が崩壊する」ような経験をした。

 それは言い換えれば、自分の身体を失うということでもあったでしょう。介助とは、自分の力だけではできない運動を、他者の力を借りて遂行するということです。ところが、この他者の力を引き入れる過程で、「乗っ取り」が起こりやすい。私の知覚と運動は分断され、たいていの場合は運動だけが、他者の出すキューによって進行することになります。

 介助者の介入を受け入れる過程で生じた、主体性と身体感覚の混乱。玲那さんが一〇年にわたってメモを書く能力を保持しつづけたのは、まさにこうした状況に対抗するためであったと考えられます。・・・つまり、メモを書いている間は、知覚と運動を濃密に連動させることができているのではないか。メモは彼女にとって環世界の崩壊に対処するためのリハビリ、あるいは防護壁を作る作業だったのではないか。

 ・・・

 この玲那さんの事例を通してつくづく思うのは、環世界の「重さ」です。環世界は単なる「好きなものばかりに取り囲まれている」のような趣味趣向の話ではなく、その人の実存に深く関わります。フィルターバブル問題に対して「閉じこもるな!」と言うことはできるけれど、環世界を出ることは、一時的にせよ自分の主体性を手放すことを意味する。それは一種の「危機」です。環世界は、まさに危機状態に陥らないようにするための、私が私であるための防御壁です。

 ・・・

 大前提として、社会がよりよいものであるためには、閉じこもっているばかりではダメで、自分と異なるもの、自分にとって心地よくないかもしれないものとうまくやっていかなくてはなりません。けれども、「ダイバーシティ」や「寛容性」のような言葉をちりばめた「べき論」によって、個人の環世界を無理やり開かせようとするのは、場合によってはかなり暴力的な行為なのではないかと感じます。むしろ、私たち一人ひとりの中にある保守性を認めることが、安心して「開く」ことにつながるのではないか。