機械より人間らしくなれるか?

文庫 機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる (草思社文庫)

 読み進むのにやや時間がかかりましたが(;^_^A、こんな取り組みもあるんだなと興味深かったです。

(単行本で読んだので、↑の文庫とはページ数が異なります)

 

P61

 きわめて簡単に言えば、チューリングテストとはコンピュータが「人間に似ている」のか「人間に似ていない」のかを見極めようとする試みである。・・・

 ・・・人間の能力とはなにか。人間はなにを得意としているのか。なにが人間を特別な存在にしているのか。・・・

 ・・・

 僕は簡易実験のために、「あなたはどこにいますか?まさにここだという位置を指してください」といったことを他の人たちにお願いすることがある。ほとんどの人は自分の額やこめかみ、あるいは眉間を指す。その理由の一つは、なんと言っても人間の社会では視覚が圧倒的に重要―ほとんどの人は自分自身を視点の中心に据える―であるからに違いないが、もう一つの理由として、二一世紀に生きる僕らには、あらゆる行動を起こしているのは脳であるという感覚も、もちろんある。心は脳の「なか」にあるものだ。魂というものがどこかに存在するとすれば、やはり同じ場所にある。実際、一七世紀にデカルトは体のなかの「魂のありか」を正確に把握しようと試み、脳の中心にある松果腺がそのありかであると考えた。「魂がその機能を直接的に働かせる体の部分は、決して心臓ではなく、また脳の全体でもない」と彼は述べる。「脳の最も奥まった一部分であって、それは一つの非常に小さな腺である」

 決して心臓ではなく―。

 ・・・人間の歴史のなかで脳がそのありかだと考えられることはあまりなかった。たとえば、古代エジプトのミイラ作りでは人間の器官がすべて保存されたが、脳だけは例外―役に立たないと考えられていたのだ―で、脳は指でかき混ぜられて鼻からえぐり出された。その他の主な器官―胃、腸、肺、肝臓―はかめに移されて封をされ、心臓だけは体内に残された。これは・・・心臓が「人間の生命と知能の中心」と考えられていたからだ。

 実際、ほとんどの社会では自我が胸部のどれかの器官にあると考えられてきた。このような、思考と感情の中心は心臓であるという歴史的概念は、英語のイディオムや比喩表現のなかに化石記録のように残っている。「that shows a lot of heart (やる気を見せる)」「it breaks my heart(がっかりだ)」「 in my heart of hearts(心の奥から)」などがそうだ。他の多くの言語―ペルシア語、ウルドゥー語ヒンディー語ズールー語など―では肝臓が中心となる。したがって、こうした言語では。先ほどのイディオムが「 that shows a lot of liver」のように書かれることになる。アッカド語の「カース」(心臓)、「カバトゥ」(肝臓)、「リップ」(胃)はすべて、さまざまな古文書のなかで、人間(または神)の思考、思索、意識の中心を表してきた。

 ・・・

 ・・・すべてを語っていると話が長くなるので、各時代の興味深い論点をいくつか取り上げることにする。プラトンの書いた『パイドン』(紀元前三六〇年)によれば、ソクラテスは自身の処刑を目前に控え、魂は「多くの人々の言うように、肉体と同じようにたちまち吹き飛ばされて滅びてしまうのか。とんでもない」・・・と主張している。・・・ソクラテスは魂が物質を超越すると主張している。これに対して、他のギリシア人の多くは魂がきわめて薄く繊細できめ細かい物質でできていて―これはヘラクレイトスの見方―したがって、肉づきよく頑丈な人体よりも脆いものだと考えていたようだ。・・・

 ・・・ホメロスはこの「魂」という言葉を人間にしか使わなかったが、彼のあとに続く思索家や著述家たちはこの言葉をはるかに自由気ままに使いはじめた。エンペドクレス、アナクサゴラス、デモクリトスはこの「魂」という言葉を植物や動物にも使った。エンペドクレスは自分が前世で藪だったと信じていた。ミレトスのタレスは、磁石には他の物体を動かす力があるのだから魂が宿っているのではないかと疑っていた。

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 それにしても、この魂についての話はどこにつながるのだろうか。人間の生命の根源について語ることは人間の性質、そしてこの世界における人間の立場について語ることであり、したがって人間はどう生きるべきかについて語ることである。

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 理性を重視したギリシアの思索家は・・・魂の領域を理性の範囲に限定していた。だがアリストテレスは、感覚印象を思考にとっての通貨、あるいは言語と捉えていた・・・だがプラトンは・・・むしろ相対的完全性や抽象概念の明瞭さを求めていたようだし・・・ソクラテスは知覚経験に集中しすぎる心は「酩酊」「注意散漫」「盲目」であると述べている。

 デカルトは一七世紀にこうした考えを受け継いで、「感覚」というものに対する不信感を募らせるようになり、一種の極端な懐疑主義に走った。自分の両手は本当に自分の眼の前にあるのだろうか?世界は本当に存在するのだろうか?自分という人間は本当に存在するのだろうか?

 彼が出した答えは、あらゆる哲学で最も有名な一文となる。コギト・エルゴ・スム。すなわち、われ思う、故にわれあり。

 われ思う、故にわれあり―・・・「われ経験する」でも「われ感じる」でも「われ欲する」でも「われ認識する」でも「われ知覚する」でもない。「われ思う」である。人間は、生きることとは最もかけ離れた能力によって生きていると確信できる―少なくとも、デカルトはそう述べているのだ。

 これは、AIに関するこぼれ話のなかでも、最も面白く皮肉なものの一つだ。この考えによればアリストテレスの考えに基づいて確立された演繹論理学こそが、真っ先に倒されるドミノとなったのだから。