唯が行く! 当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記

唯が行く! ー当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記

 昨日の本の著者の一人、横道誠さんが、小説の形で当事者研究とオープンダイアローグの実践を紹介してくれている本で、興味深かったです。

 こちらは解説部分の引用です。

 

P54

 当事者研究では、「苦労」を自分のものとして引きうけなおすことで、それを自分で扱えるものへと仕立てなおします。その成立に関するもっとも的確な見取り図は、向谷地さんが示した「当事者研究の源流」の図に体現されています(向谷地2020)。

 この図の中心部分をひとことでまとめると、「べてるの家」が「ユーモア、反転/非援助、苦労の哲学」などの思想のもとで当事者研究を立ちあげて、そこに、企業で人材育成のためにおこなわれる「一人一研究」という発想、依存症からの回復やSST(Social skills training/生活技能訓練)から学んだ実践知が合流していたということです。

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 二〇二〇年、彼は「浦河べてるの家」の「苦労の哲学」に焦点を当てて、「「人間と苦悩」は切り離すことができないものであり、そもそも人間は、誰でも〝あたり前〟(プレディカメント―無くてはならない苦悩)に、「生きる苦悩」を与えられているホモパティエンス(苦悩する人間―フランクル)であり、人間は、その苦悩によって成長できる」と述べました(向谷地2020)。

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 ・・・フランクルは、人間は一回性と唯一性にもとづいて価値を生みだすことができると考えます。彼は人間が生みだす価値を、創出行為をつうじた創造価値、自然や芸術の美を鑑賞する際の体験価値、「人間が変更不可能な運命に対して、どのような態度を取るか」によって決まる態度価値の三種類に分類しました(Frankl 2005:92-93)。

 フランクルが挙げた実例を見てみましょう。手術が不可能なほどの重篤な脊髄腫瘍を患って、入院して死期を迎える青年の事例についてフランクルは語っています。その青年は、身体の麻痺によって職業活動ができなくなることで創造価値に恵まれなくなりました。病気の進行により、会話、読書、音楽を聴くという体験価値からも見放されてしまいます。ところが彼は、自分が死ぬ一日前、当直の医師に気配りを見せて、その医師が夜にわざわざ彼を訪れて注射をする手間をかけなくて良いように、それを夕方に済ませてくれるように依頼するという態度価値を見せたのです(Frankl 2005:94-95)。

 この三種類の価値という論理によってフランクルは、どれほど苦悩に満ちた体験でも、そこにはそれ自体で価値があるという考え方を提言しました。フランクルは語ります。「苦悩は感情鈍麻(アパシー)、つまり精神の枯死から人間を守るものだと言われている。私たちは苦悩するかぎり、精神が生き生きしている。そうだ、私たちは苦悩のなかで成熟し、苦悩ゆえに成長する―苦悩は私たちを豊かに、強力にするのだ」(Frankl 2005:160)。

 これは、向谷地さんが当事者研究の核心に見た「非援助、苦労の哲学」です。フランクルは『それでも人生に「諾」と言う』で、フョードル・ドストエフスキーの文言を引用しています。「私が恐ろしいことはひとつだけ。私が苦悩に値しない人間になることだ」と。フランクルは、苦悩を「最後に息を引きとるときまで奪われることがない人間の精神的自由」と呼び、そのような苦悩が収容所の「殉教者のような人々」に見られたと証言します(Frankl 2020:103)。強制収容所のような悲惨な場所で、私たちは創造価値や体験価値を失ったとしても、「自分が今ここにありながら、このようにきわめて無理強いされた制約に対して、どのような態度を取るかという仕方」によって、態度価値を作りだすことができるのです(Frankl 2020:103-104)。

 

P235

 当事者研究やオープンダイアローグなど「ナラティブ」によるケアやセラピーの実践に関心がある人たちのあいだでは、「ジャッジする」という言葉がよく使われる。この動詞には「裁定する」という中庸な意味よりも、「断罪する」と訳したほうが適切な語感、否定的なニュアンスが込められている。

「なぜ私をジャッジするのですか」「彼らはジャッジすることに関して鈍感だ」、「ここはジャッジされることがない安心安全の場です」などの表現で用いられる。一方的な断罪は、もちろん論外。でもジャッジの芽は誰にでもある。というのも、精密に考えるならば、人間は生きているあいだ、つねに小さなジャッジを重ねていると言えるからだ。この文章を読んでいるあなたは、私がいま述べている意見をジャッジしているか、ジャッジしそうになっているのではないだろうか。この文章は読みにくい、とかこの文章は子どもっぽい印象がある、などとジャッジしないだろうか。それ以前に、この本を読もうと思ってくれたあなたは、この本をあらかじめジャッジしたと言えるのではないか。

 なまの世界はどよんとした渾沌だ。私たちは周囲のものを知覚して、世界を区分けしながら把握している。そうして、これは鮮魚だ、これはまな板だ、これは包丁だ、これは私の手だなどと連続的に判断しながら、刺身料理を作っていく。そこには小さなジャッジの積み重ねがある。そのような最小のジャッジをしなければ、一瞬も生きていくことはできない。そのような最小のジャッジが、自分にとって決定的な存在と言える周囲の人々に及ぶのは、ある意味では当たり前のことではないだろうか。

 私たちは最小のジャッジに、もっと注意を向けてみるのが良いと思う。それがどのようなかたちで大きなジャッジに連絡していて、他者を切ってすてる役割を果たしているかを自己観察してみるのだ。そうすることで、人は「ジャッジする生命体」としての自分の本性に気づいて、自分の凶悪な刃が他者に振りおろされるのを阻止しやすくなるのではあるまいか。

 ジャッジに関して思うことは、あとふたつある。

 ひとつは対話のなかで褒めることも、ジャッジになっているということ。しかも、なぜ褒めるかというと、歓心を買いたいとか懐柔したいとかの意図があるはずだ。自分の活路を開くために、人の心を利用している。その際、相手のどこかしらを評価して、その人にジャッジをくだしている。褒められることで自己肯定感を高められたと感じるときもあると思う。でも究極的には、褒めることは悪手だ。褒めたいときは、「私は○○さんの○○に強い印象を受けた」などのアイ・メッセージにすることで、相手に対する支配力を弱めることができる。また誰かが人を褒めるときには、自分はその褒められている人を別の角度から褒めてみることで、その人を支配から解放できるかもしれない。多角的に褒めることで、ポリフォニーが発生するからだ。

 もうひとつは右にも書いた、私たちはジャッジする本性を持っているということに関係がある。小さなジャッジが問題にならないとしても、相手が許容できないと感じる強度のジャッジは人間関係の深刻なもつれを生みだす。そのようなときに、「ジャッジした」当の人物を、複数の人が話題にして「ジャッジする」ことがよく発生する。そのジャッジを、思いとどまっても良いかもしれないということだ。

 ローゼンバーグの「レッテル貼り、分析、ジャッジすることは、満たされていないニーズの悲劇的な表現だ(Sears 2010:56)」という発言。他者にジャッジの斧を打ちおろす人は、おそらく追いつめられていて、悲劇的感情のなかでジャッジしている。ジャッジした人を「ジャッジした」とジャッジする人々は、ジャッジする相手を悪人として扱っている。でもその人はもしかして悪人ではなくて―悪人に見えたとしても!―、悲劇を生きている、つまり人生の地獄を生きている人かもしれない。その地獄を生きている人を、私たちがジャッジするのは悲劇の上乗せだ。どのようにすればその人が悲劇から解放されるのか、他者をジャッジするのをやめてくれるのかを考えてみることが大切だと思う。そのためにも、私たちには「ナラティブ」という夢の道具がある。