哲学者の視点

言語が消滅する前に (幻冬舎新書)

 哲学と日常がどのようにつながっているのか、この辺りを読みながら、今更ですが実感がわいてきました。

 

P181

國分 二〇一七年に千葉君と最初に対談してから四年が経ちました。二〇二一年に対談するにあたって、コロナ禍の問題を無視することはできないので、そこから入りましょうか。

 コロナについて少し数字を調べてみたんです。二〇二〇年の年末の段階だと、感染者数は世界で約八〇〇〇万人で、それが二〇二一年七月現在、一億八〇〇〇万人まで増えています。死者は二〇二〇年末の段階で一七五万人だったのが、現在は四〇〇万人です。この間、感染者数も死者数も猛烈に増えたということです。

 ただ、これをスペイン風邪と比較してみると、数のうえでは大きな違いがある。実際に国立感染症研究所のサイトで調べたところ、スペイン風邪の場合、世界の人口の三分の一、約五億人が感染し、死者は少なく見積もって四〇〇〇万人、多く見積もると一億人という数字がある。つまり、スペイン風邪の感染被害はコロナと比べて一桁、多く見積もれば二桁違うんですね。

 この数字を見てもわかるように、コロナ・パンデミックは歴史上あった感染症の被害に比べて、極端にひどいわけではないんですよ。にもかかわらず、社会は非常に大きく変化しているんじゃないかというのが、まず投げかけたい問いとしてあります。その大きな変化の一つとして、自由と安全を秤にかけたときに、考えられないほど、安全に傾いていることがあります。スペイン風邪のときには、それほどの変化はなかった。

 だから今回のコロナ禍は、確かに本当に悲しむべき被害はあるんだけれども、その被害とは相関しつつも、ある面ではそれとは独立して社会の変化が猛スピードで起こっている。そしてその変化には、もともとあった傾向がコロナ禍で強力に推し進められたという面があります。

 そのもともとあった傾向とは、わかりやすいもので言うと健康中心主義であり、もう少し広く言うと二〇世紀末ぐらいからのキーワードだったセキュリティの問題です。かつてはテロによってセキュリティの危機が煽られていたけれども、いまはそれが疫病によって煽られている。つまり、生きるか死ぬかという問題になったときに、健康・安全のためには自由の制約もやむを得ないという感じでそれを受け入れさせてしまう状況が、コロナによって加速しているわけです。しかも、それが右派の国家主義的な方向からだけでなく、左派的な方向からも「政府はしっかり管理しろ」という形の政府批判として出てきています。

 ここで言及しておかねばならないと思うのは、ジョルジュ・アガンベンのコロナについての発言です。アガンベンは、僕に言わせればもともと保守的な傾向がある思想家ですが、安全と引き換えに易々と死者の権利や移動の自由を引き渡す社会に対して、強い警鐘を発しました(アガンベン『私たちはどこにいるのか?―政治としてのエピデミック』、青土社、二〇二一年)。

 コロナ禍のなか、死者たちが葬式もなされぬままに埋葬されている。人々はそれを受け入れ、驚くべきことに教会ですらそれについて何も言わない。しかし、死者が埋葬の権利をもたない社会、死者の権利を踏みにじる社会で、倫理や政治はどうなってしまうのか。そもそも、生存だけを価値として認める社会に意味があるのか。アガンベンはそう問いかけるわけです。

 移動の自由についてはこう言います。過去にも深刻な伝染病はあった。にもかかわらず、それを理由にして移動の自由すら奪う緊急事態宣言を行うことなど、戦争中ですら誰も考えなかった、と。

 その結果、世界中の哲学研究者から総スカンを食らい、「炎上」騒ぎが起こるわけです。でも僕は、アガンベンの挙げた二点はコロナ禍を考えるうえで極めて重要な問題を含んでいると思うんです。

千葉 コロナがもともとこの社会にあった傾向を加速させたというのは、その通りだと僕も思います。ひと言で言うと、コロナは資本主義に投入されたハイオクガソリンのようなものです。

 ・・・

 ・・・結局、資本主義+国家というシステムをどうやって延命させていくかが大命題になっている。そのシステムを延命させるために、余分なものとしての自由を、この際一気に根こそぎにしてしまえという加速が働いている気がするわけです。

 こうした状況に対して、右・左の分割線とは違う分割線が引かれているんじゃないでしょうか。つまり、絶対安心・安全という側と、リスクと共に生きていくことに人間的意味を見いだす側の分割線がいま引かれていると僕は思うんです。

 ・・・

 ・・・アガンベン・・・にとって、安心・安全を至上命題にすることは、死が無意味になることでもある。それだったら、リスクと共にあったとしても、意味がある死を死ぬべきだという立場をとっている。というのも、つまりアガンベンは、現在は収容所における人間の扱いと似たものが全面化していると捉えているからです。・・・それより犠牲のほうがはるかにマシだし、人間の本来性があるというのがアガンベンの話で、筋は通っているんですよ。

 

P194

國分 最近、一般に「責任」と翻訳されるレスポンシビリティ(responsibility)を、インピュタビリティ(imputability)から区別するべきではないかと主張しているんです(國分功一郎、「中動態から考える利他―責任と帰属性」、伊藤亜紗編、『「利他」とは何か』、集英社新書、二〇二一年)。責任がレスポンシビリティであるなら、それは目の前の事態に自ら応答(respond)することですね。それに対し、インピュート(impute)というのは「誰々のせいにする」という意味で、責めを負うべき人を判断することであって、これを「帰責性」と呼ぶことができます。

 ・・・いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起こってくる余裕がないという状態ではないか。レスポンシビリティはまさに中動態的なもので、「俺が悪かった」とか、「俺がこれをなんとかしなきゃ」とか、ある状況にレスポンドしようという気持ちですね。

 ところがレスポンスを待つ雰囲気がいまの社会にはない。とにかく誰かが俺にインピュートしてくるのではないか、俺のせいにしてくるかもしれないということばかり考えているから、責任回避が過剰になる。

 千葉君の話と結びつければ、日常生活でレスポンシビリティを待つことができていれば、インピュタビリティが過剰になったりしないと言えるのではないか。さらに言えば、レスポンシビリティは法外なものと関わっている。自分の気持ちだから。

 だから、この「法外なもの」について、もっと考えないといけない。たとえば、正義とは法外なものだというデリダの認識がありますよね。法に適うように行為することは、あらかじめ法によって正しさを保証されているわけだから、正義でもなんでもない。正義とはそういった法の後ろ盾がないところである判断を下し、行為することだと。

千葉 計算を超えるわけですよね。

國分 そう。一番わかりやすい例は、良心的兵役拒否です。たとえばベトナム戦争に私は行かないというのは、その時点では明らかに違法行為だけれども、それが正義だったことは後からわかるわけです。

 ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。いまはむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時に判断できる。・・・社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余裕がなくなってきている感じがします。

 

P204

國分 ・・・ドイツでロックダウンをしたときのメルケルの演説は、外国人として聞いていても非常に心打つスピーチでした。メルケルは東独出身だから、移動の自由が持つ重みを身にしみてわかっている。だから、移動の自由の権利を奪うことは絶対にあってはならないけれども、今回、それをしなければどうしても対応できないので、わかってくださいと。ああいうスピーチを見ると、まだ世界には、生きた言葉を使っている政治家もいるのだと少しだけ安堵します。・・・

 ・・・

 ちょっと歴史を遡りすぎかもしれませんが、弁論家というのは古代ギリシアプラトンによって徹底的に叩かれたわけですね。あいつらは言葉をきれいに飾るだけで、真理がわかっていない、と。でも、いまは全然状況が違う。情報と統計による管理があまりにも行き過ぎてしまったわけだから、言葉で人を動かすことの大切さが少しずつ理解されつつあるのではないか。