この辺りも興味深く読みました。
P197
ところで、私達は、ある単語を読んだ瞬間に、あるいは、聞いた瞬間に、言葉の意味を理解できる。これは不思議なことだ。
ある瞬間にリンゴを見る、というのはイリュージョンだった。リンゴであるという事を理解するために脳のニューラルネットワークが働き、その結果として、リンゴだとわかるはずなのであって、見た瞬間にわかるはずがないのだった。同様に、ある瞬間に、読んだことや聞いたことが理解できるわけがない。脳のニューラルネットワークが働いた結果としてやっと、意味が理解できると考えたほうが妥当なはずだ。
同様に、ある瞬間にリンゴについて考えたり、文章を思い出したりする、思考という「知」も、当然、同様に、イリュージョンであるはずだ。つまり、考えた瞬間に考え付くわけがないので、その前に無意識的な前処理が行なわれているはずだ。
まとめると、文章を聞いたり読んだりする場合は、知覚してから理解するまでのタイムラグがあるはずなのに、私達はそれを意識できない。一方、文章を思い出す場合は、思い出すまでの間に無意識的な準備があるはずなのに、私達はそれを意識できない。
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つまり、私達は本当は遅れて意識しているのに、時間をさかのぼって意識したかのように感じるようにできているのだ。
P206
釈迦の話をしよう。本書では宗教の話に立ち入るつもりは全くないが、人間釈迦について考える事は、これまで述べてきた瞑想の境地や悟りの境地、あるいは、心はイリュージョンか否か、という議論に深くかかわるからだ。
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瞑想の境地とは、自分の身体がなくなって心だけになったような、あるいは、心が宇宙大に広がって世界と一体化したような・・・体験だ。これは、私の解釈によれば、夢と同じようなイリュージョンだと考えられる。
一方、釈迦が至った悟りの境地とは、煩悩を捨て、執着を捨て、欲求を捨て、現世を望まず、来世も望まず、すべてのものは虚妄であることを全体として理解する境地だという。自我は妄執によって仮に構築されたものなのであって、存在するかのように思い込まれているものに過ぎず、自我は行為の主体ではない。この事を理解し、自我への執着を離れれば、世界は「空」なりという達観した見方をすることができるようになるという。
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・・・そんな境地に達せるわけがないではないか、というのが昔の私の感想だった。・・・
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ただ、釈迦は、修行僧のみならず、在家の普通の人も悟りに達する事ができると考えていたようだ。
『スッタニパータ』の中では、幸せについて述べている。人を尊敬し、妻子や親族を愛し、良い行いをし、安穏である事がこよなき幸せである、といった具合だ。すくなくとも、普通の人に対しては、妻子を捨てよとも、幸せになりたいという欲求を捨てよとも言ってはいない。
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他人には幸せになる方法を説き、しかも他人に対し幸せであれ、と願う人間釈迦自身は、では、なぜ、ストイックな人生を選び、悟りの境地に至れたのだろうか。
いろいろな体験をして満ち足りていたことが必要条件の一つなのではないかと思う。
釈迦の人生を振り返ってみると、若い時は王宮における贅沢な生活を送っていたという。その後、二十九歳の時、妻子も財産も捨て、苦行の旅に出る。しかし、苦行では悟りを開けないと考え、菩提樹の木の下で瞑想している時に悟りの境地に達したという。
つまり、釈迦は、豊かさも貧しさも楽しさも辛さも経験した後に、豊かさと苦行の両方を否定したのだ。これは、両者を経験したからこそできたことなのではないだろうか。
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さて、釈迦は、贅沢に飽きたのか、ばかばかしくなったのか、今度は極端な苦行に走った。しかし、苦行もばかばかしいと気付いた。どちらも無意味だと。
それが、「空」だ。つまり、「イリュージョン」だ。
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釈迦のいう無我は、「我はない」なのか「我ではない」なのかという議論があるが、私は「我ではない(非我)」だと思う。
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私達の「知情意」はイリュージョンだ。存在すると思うと固執したくなるかもしれないが、もともとないのだ。ないのに、イリュージョンとして、あるように見えている分だけ「儲けもの」というものだ。生きているクオリアの実在を信じようとするから、死ぬのがいやになるのだが、どうせ、生きているクオリアなどという物は本当はなく、私たちはゾンビなのだが、脳のおかげで、生きている感じを感じていられるだけ「儲けもの」というものだ。
「儲けもの」という表現は適切ではないかもしれないが、・・・
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意識は自然の自律分散的活動のモニターに過ぎないのだ。たまたま一つの個体に一つの「我」があるように感じられるに過ぎないのだ。もともと何もない、のっぺらぼうの自然の一部が、どういうわけか、ただ一瞬、「我」になったという奇跡の「儲けもの」を堪能し、堪能したあとは、また、のっぺらぼうの自然に戻るだけなのだ。それでいいではないか。