宇宙という木の一枚の葉

坊さん、ぼーっとする。 娘たち・仏典・先人と対話したり、しなかったり

 この辺りも、印象に残ったので書きとめておきたいと思ったところです。

 

P129

 つい先日は法事を終えて納骨に墓を訪れたら、家族の人たちが、トウバや線香、ロウソクやら石屋など、納骨に必要なものはすべて揃っているのに、納骨する「お骨」だけ家に忘れていることに気づいた。

「〝納骨に骨を忘れる〟という格言が生まれそうですね」とボソッと誰かが言うと、ここでも家族のみなさんは、顔を見合わせながら大笑いされていた(故人が大往生であったこともあると思う)。

 これは同じことが仮にあったとしたら、大喧嘩をはじめる家族もあると思うけれど、法事とか葬式というのは、その一族のカラーや雰囲気が如実にあらわれる。なんにせよ怒るよりは、笑っていられることは、なんというか好ましい。

 

P143

 二〇一八年十一月三十日に、僕が企画・進行して開催するイベント「栄福寺の対話」の二回目が開催された。・・・ゲストは前回と同じ、独立研究者の森田真生さんと禅僧・藤田一照さん。お二人とも僕が心から敬愛する人たちである。

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 前回の「栄福寺の対話」を思い出すと、森田さんが編者をつとめられた『数学する人生』(岡潔著)という本の中に収録された数学者・岡潔の最終講義での言葉が、より深く胸に飛び込んできました。

 

 人というのは、大宇宙という一本の木の、一枚の葉のようなものです。だいたいそう見当をつければよいでしょう。逆に、宇宙という一本の木の一枚の葉であるということをやめたなら、ただちに葉は枯れてしまいます

 幸福とか生き甲斐とかいうものは、生きている木から枝を伝わって葉に来る樹液のうちに含まれている。その木から来るものを断ち切って、葉だけで個人主義的にいろいろやっていこうとしても、できやしないのです。自我を主人公として生きていると、生命の根源から命の水が湧き出ることがなくなってしまう。命の真清水が自我から湧き出ると思えますか。そんなはずないでしょう。

 

 これは本当に印象的な言葉だと思います。僕たちは修行の中で、自分が仏であることを気づこう、知ろうとするわけですが、「一枚の葉」である自分が「一本の木」の部分であることを知ること。これが、僕にとっても「自分も仏であること」を知ることと、どこか重なりあうように感じています。・・・

 

P163

 いわゆる諸法は空なり、無自性と相応するが故に。諸法は無相なり、無相の性と相応するが故に。諸法は無願なり、無願の性と相応するが故に。諸法は光明なり、般若波羅蜜多清浄なるが故に  『理趣経』第七段より

 

 現代語訳

 現象界のあらゆる存在は空である。それ自体に固有の実体性をもたないことと結びついているからである。現象界のあらゆる存在は固定的な形を持たない。固定的な形の性質を持たないことと結びついているからである。現象界のあらゆる存在は願い求めることがない。願い求めることがない性質と結びついているからである。現象界のあらゆる存在は光明である。さとりの智慧の完成は清らかなものであるからである

 

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 この引用した理趣経の場面にもあるように、すべての存在が空で、固定的な形を持たない性質を持つとしながら、その後の場面で、だからこそあらゆる存在が光輝いている(「現象界のあらゆる存在は光明である」)と表明することにも、大乗仏教密教の真骨頂が現れていて、象徴的な美しい場面です。

 師はこの段を説く時、「本不生」と「ア」という密教の大事な言葉を説かれました。本不生とは、本来生じたものでも滅したものでもない、根源的なものを指します。生まれたものであれば、「はじまり」があるのですが、はじまりもない大根本なのです。つまり「不」という否定によって根本を表現します。また密教には「ア」という梵字を使う「阿字観」という瞑想がありますが、この「ア」という字にもサンスクリット語で打ち消し、否定の意味があります。・・・

 

P171

 空海聞く。物類形を殊にし、事群体を分つ。舟車用を別にし、文武才を異にす。若し其の能に当れば、事則ち通快し、用其の宜を失えば、労すと雖も益無し  弘法大師空海『遍照発揮性霊集』巻第三

 

 現代語訳

 私、空海は聞いております。万物は形が違い、物事は本質が分かれ、舟と車ははたらきを別にし、文と武は才能を異にするとか。もし、それぞれの能力に合致すれば、事柄はうまくいき、はたらきがそれぞれのもちまえにはずれれば、労力を費やしても利益はありません

 

 僕はこの言葉を読んだ時、ある人の話を聞いていたときのことを自然に思い出した。彼は一代で建築会社を興し、目覚ましい成果をあげて信頼を勝ち取り、公共事業をいくつも請け負いながら、障害者の方の雇用にも積極的で、仕事に対してものすごく情熱的かつ丁寧だった。

 そんな彼が、かつて建設業の前に「カレー屋」を経営していたことがあるという意外な話をしてくれた。僕はカレーが好きなので、彼のような力強い働き手が作ったカレーはどんなカレーだったのかと、ワクワクしながら尋ねた。

「それって、どんなカレーだったんですか?」

「あのね、カレー屋ほど楽な商売はないんだよ。業務用のレトルトパックが売ってるから、ご飯を炊いて、レンジで温めて出せばいいんだ」

 そのカレー屋は、もちろんすぐに畳むことになった。

 僕はその話を笑って聞きながら、「ああ、結局彼は建設業が好きで、向いているんだな」と感じ入ってしまった。彼には、建物をうまく建てることはできるけれど、美味いカレーを作ることはできないし、そのつもりもない。でもカレー屋をはじめた。

 僕は、いろいろな場面でこのエピソードを思い出す。「人間、できることはできるし、できないことは、できないんだ」と。だから「できること」を見出すしかない。あまりにもシンプルだけど、意外と人はこのことを、忘れがちだ。・・・そして、自分ができることを、人は知らないことがある。