得る所無きが故に足りている

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
最後の落とし穴の話、ですよね〜と思いました(^_^;)

P153
 色は空に異ならず、空は色に異ならず、しかも色即是空で空即是色なのだと、私は申し上げたはずです。・・・
 要するに全ての現象には「自性」というものがなく、「縁起」のなかに発生する流動的事態。「諸行無常」で「諸法無我」だからこそ、実相は常に私たちの脳の認識である「色」を超える。・・・
 「色」という物質的現象が、いかに本質においては「空」であるか、それはくどいほど申し上げました。だから「色即是空」です。
 しかしそれでも、本質が「空」であるからこそ物事は変化して関係を持ち得る。しかも、だからこそ「縁起」のなかで「色」として発現できる。それが「空即是色」ですね。
 だから「空は色に異ならず」。「空性」と「顕現」は別物ではなく、また「色は空に異ならず」。「顕現」を支えているのも「空」なのだと申し上げたはずです。
 つまり私は、「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳が手心を加えた現象なのだと申し上げてきたつもりです。いや、脳というより、「私」と云うほうが正解ですね。
 そして手心が加わる結果、「色」から「受」、「想」、「行」、「識」と進むにつれてどんどん人工度が高まります。
 感覚、表象(知覚)、意志、認識、この順番で、どんどん拵えものになる、ということなのです。
 ・・・
 ですから「空」という「いのち」の本質を見極めてしまうと、十八界すべてが自性のない相互依存の世界であるとわかるのです。・・・
 ・・・
 さて、以上が私の申し上げたい「般若波羅蜜多」の梗概のようなものですが、こうした認識をもつことを、「智慧を得た」と思い込むことが、私たちの陥りやすい最後の落とし穴になります。
 どうしても私たちは、なにかを学ぶ、知識を得る、という次元で全てを処理するクセがついています。これも大脳皮質の強力な支配体制のなせるワザなのでしょう。・・・しかも「得た」と思うのは常に「私」です。タメになった、などと思っているうちはまだまだ「般若波羅蜜多」には程遠いということです。
 ・・・
 「智も無く、亦得ることも無い」のです。
 だって、智には無智、得には不得という反対語があるでしょう。それではまだ二元論、つまり「私」の考え、ということです。
 般若とは、裸の「いのち」が本来もっている生命力への気づきでもあります。「空」というのは、「私」というものを抜きにした事象の本質的な在り方なのです。それを感じる主体は自他の区別がつかない状態で全体に溶け込んでいます。
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 「いのち」はこれ以上得る必要がないほどに、すでに「足りて」います。「得る所無きが故に」なのです。