坊さん、ぼーっとする。

坊さん、ぼーっとする。 娘たち・仏典・先人と対話したり、しなかったり

「ボクは坊さん。」「坊さん、父になる。」を面白く興味深く読んだので、あ、三冊目が出てたんだ、とうれしく手に取りました。

 印象に残るところがたくさんありました。

 

P21

 考えてみると「生」も「死」も人間の生み出したひとつの<言葉>だ。だから僕たちの意識的なバイアス(偏り)によって作り出されてきた、一種の架空の概念である。しかし、「人が死ぬ」そして「生きている」という圧倒的な現実は、歴然とした存在として僕たちの前に立ちふさがる。

 仏教経典の『維摩経』に、このような一節がある。

 

<二つのものの対立を離れること>というのは、どのようなことであるのか。それはすなわち内外のもろもろの事実を念じないで、平等を行ずることである。では<平等>というのは、どういうことであるのか。それは我も涅槃も共に等しいと見なすことである。なぜであるかというと、我と涅槃と、この二つはともに空であるからである。なぜその両者が空であるということがいえるのか。その二つはただ名称にすぎないから空なのである

 

「名称」に過ぎないものが、共に「空」であるとしたら、生も死も一体であり、空であろう。そう意識で思い浮かべながらも、生と死の持つ現実的な対極に僕たちはいつだって、引っぱられる。

 引っぱられながらも、それでもそれと同時に、ここにあるただの「生の心」で、言葉にできない名づけようのない感情で、ただ生と死を言葉をはずして「見る」ように味わいたいと希求する。

 

P30

 父親が昔、言っていた言葉で、たまに思い出す言葉がある。僕が、「こんな物を食べると身体にいいらしい」というような雑談をしていたら、「なにを食べるか、ということよりも、なにを食べないか、ということのほうが大事な気がする」と言っていた。

 七世紀に仏教の戒律を学ぶためにインドに渡った中国人僧侶が、インド僧院での食事の作法や衣のつけ方、生活の様子を詳細に記述した『南海寄帰内法伝』という書物がある。そこには仏教以外のことも、けっこう書いてあり、健康についての記載も多い。

 その中で病というのは、当時のインドの考え方から言うと、食べ過ぎと働き過ぎからくるのに、(自分たち)中国人は食べ過ぎていて、その後で薬を飲んでいるのはよくない、という意味のことが書いてある。

 ・・・

 前の食事の消化が終わっていないのに、とにかく時間だからといって、食事をとるのはよくないとも書いてある。

 僕は、体調が優れない時に漢方のお世話になることも多く、一概に当時のインドの考え方のほうが正しい、とは思わないけれど、ちょっと参考にしたい考え方であると思う。

 これは、食事にかぎった話ではなく、「なにをやるか」ということを増やしてゆくだけでなく、「なにを減らすか」「なにをやめるか」ということも、もっとさまざまな場面で、考え実行する機会があってもいいように思う。

 

P52

 栄福寺がある今治市には、「FC今治」という元サッカー日本代表監督の岡田武史さんが会長を務められているサッカーチームがある。

 ・・・

 代表監督として大きな結果を残され、Jリーグの監督オファーをいくつも受けながら、今治という小さな街のサッカーチームを渾身の力で一から作ろうとされている姿が、これからのお寺や仏教と重なって見える。

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「神は細部に宿る例を何度も経験した(ワールドカップクラスでもディフェンスが数センチ足を伸ばせるかどうかで勝負が決する)」「上手くなるには、好きになることが必須」「今できることをやる」「負けを含めて、起こっていることは、すべて意味があることだと信じている」「進歩には波がある(止まって見える時が必ずある)」「スタートアップの組織は死に物狂いでやらないと終わる」「前例のないことをしようとしているのだから、他チームと同じことをしていてもはじまらない」「〝とにかくやってみろ。だめだったらやめたらいい〟ということ(禅語の淵黙雷声から)」「腹をくくるかどうか、である。くくった後の人間関係は変わってくる」「里山スタジアム構想」

 僕の記憶違いの部分もあると思うけれど、今の自分にビシバシと響いてくる言葉、思想の連続だった。そしてやはり、これから「お寺や僧侶が担えることの可能性」に太く繋がっている。その時、不思議と響いてきた弘法大師の言葉があった。

 

 色すなわち心、心すなわち色、無障無碍なり   弘法大師 空海『即身成仏義』

 

 現代語訳 

 物質はすなわち心、心はすなわち物質であり、さわりなくさまたげがない

 

「物」と「心」は、つねに表面的にも交流関係にあり、本質的には違う存在ではない。しかしあえて分けてとらえた時、「心」と一見みえるものが、大きな変化をみせると、僕たちの現前に広がる「物」も一緒に動いていくだろう。

 そして「物」が動くと、「心」がまた動いていく。そして常に融け合っている。

「世界はもっと美しくなれるし、おもしろくなる」

 そんな声を聞いたようだった。

 

P90 

 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放れている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない 『スッタニパータ』九一四

 

 人生の中で出会う、いろいろな事象を見分けながら、ある場面においては意識的に「敵対することがない」というのは、練習したり、鍛えることのできる感覚ではないかと思う。

 

 ・・・ふと弘法大師のこんな言葉が目についた。

 

 仮に非相に託いて非形を示現す  弘法大師空海三教指帰

 

 現代語訳

 仏は本来は無相であり無形であるけれども、仮の姿を十方に現す