「うちの子がんばれ」でいい

坊さん、父になる。

ここもとってもいいなと思ったところです。

P224
 ・・・ある作家と心理療法家の対談で話されていた内容だった。作家の方が、「最近の親は、"うちの子"しか見えていない気がして……」と話をふると、その心理療法家の方が「いえ、"うちの子、がんばれ"、ある意味では、それでいいんです」という意味のことを話されていた。僕はなぜか子どもを授かる前から、その言葉を繰り返し思い出すのだ。
 ・・・ここには大事なテーマがあるように思う。
 人間がさとって自他の区別を超越すると、自分の子も他人の子も、自分も他人も分け隔てのない世界が広がっているだろう。それは一種の理想郷だと思うし、それを「実現不可能なことだから、荒唐無稽な話だ」と僕は思わない。実際にそこに向かって真摯に修行されてきた方が今までもいたし、今でもいらっしゃるのだから。
 しかし、その「途中」の地点も同時にあると感じるのだ。修行の足りない今の僕(たち)は、どうしても「うちの子がんばれ」と思ってしまう。「うちの子がんばれ」というのは、ようするに「オレ、がんばれ」とほとんど同じような意味だ。
 でもそのような中で「うちの子がんばれ」だけど「よその子もがんばれ」「あなたもがんばれ」とどこか「正直に」思えたならば、そこにも「今までにはなかった」「感じることのできなかった」よろこび、しあわせ、リラックスがあるんじゃないか、そんなことを想像した。
 それを僕は「途中の仏教」あるいは「かなしみの仏教」と心の中で呼んでいる。・・・途中だから、よろこびもかなしみもいっぱいある。・・・
 ・・・
「友よ。わたしは立ち止まる時に沈み、あがく時に溺れるのです。・・・」『サンユッタ・ニカーヤ』第一篇第一章第一節三
 ・・・
 栄福寺のウェブサイトを立ち上げた時、僕はトップページに、あるコピーを添えた。それは「SING ALONG BUDDHA,DANCE WITH KUKAI」(「ブッダと歌い、空海と踊ろう」)という言葉だった。そう、僕たちは今、ここで「踊り続けなければならない」。立ち止まることなく、あがくことなしに、激流の中で。

栄福寺のサイトはこちらです→http://www.eifukuji.jp/