名前とか、自分とか・・・

結論はまた来週

 さりげなく存在する深い何か・・・興味深く読んだところです。

 

P25

 私は子供の頃から「始まり」に馴染めなかった。唱歌『春が来た』の♪山に来た、里に来た、野にも来た~と合唱しながら、そんな所まで押し寄せてくるのかと圧迫感に襲われたし、宇宙はビッグバンによって始まったという定説を知った時も、だとするならその前は何だったのかと疑問がわいた。「始まり」が決まると「始まりの前」も想定される。「始まり」がさらなる「始まり」を呼び起こすようなもので、これでは堂々巡りである。

 果たして、「始まり」とは一体何なのだろうか?その疑問に答えてくれたのが、日本の歴史だった。最古の歴史書である『古事記』は世界の始まりについてこう記していた。

「名も無く為も無ければ、誰か其の形を知らむ」

 名前もないのだから、わかるわけがないと。確かに名前のないものは存在しないも同然。つまり物事は名前を付けられることで始まるのである。正確にいうなら、物事は自ら始めることはできず、名付けられて始めさせられる。当人の意思はまったく関係ないのである。・・・

 

P61

 十数年前、私は日本の自動車工場で南米日系人の取材をしていた。1990年に入国管理法が改正され、日系人に限り定住者在留資格が与えられることとなり、多くの南米日系人が日本に出稼ぎにやってきたのである。取材を進めていくと、彼らの間に「ホンモノの日系人」と「ニセモノの日系人」がいることに気がついた。ニセモノは現地で戸籍を購入し、日系人になりすましているらしい。

「あなたはホンモノですか?」

 私がたずねると彼らは決まって「そうだ」と答え、「ニセモノはあいつだ」と指を差した。そこで私はその人に同じことをたずねると、「あいつがニセモノだ」とまた別の人を指差す。そこでまたその人を、と繰り返し訊いて回るうちに私は誰がホンモノなのかわからなくなってしまった。やがて彼らは、自分こそがホンモノであると言わんばかりに日本人らしく振る舞うようになった。妙なお辞儀をする者もいれば、日本人のおじいさんの思い出話をする者、さらにはラジオ体操してみせる者までいて、次第に私は苛立ちを覚えた。同じ南米人なのにニセモノを差別するなと。すると、ある日系人に私はこう指摘されたのである。

「差別しているのはお前だよ」

 その瞬間、私は足が震え卒倒しそうになった。私が「ホンモノ?」と訊くから彼らは答える。ホンモノ、ニセモノにこだわっていたのは私で、彼らはその期待に応えていただけだったのだ。他人の中にあると思っていた醜悪さは実は自分の中にあり、私はそれを振りまいていたのである。

 今でも私が人の悪口を言っていると、妻に「それ、あなたのことでしょ」と指摘されることがある。人のことがそれだけわかるということは、私の中に同じものがあるからなのである。

 かくして私は「自分」というものを信用しないことにしている。自分で自分を考えている時、私は考える主体であり、同時に考えられている客体でもある。主客が同じでは説明不可能で、霊魂より「自分」こそ恐るべき超常現象なのだから。