いま、どこへ向かいつつあるのか

なんのための仕事?

 この辺りのお話も印象に残りました。

 

P230

 インタビューの仕事を重ねてゆくうちに、僕は「思考」の言葉を喋りつづけているインタビューイは、その話がどんなに面白くてもっともな内容でも、当の本人がじきに飽きてくる気配を示すことに気づいた。

 もちろん個人差はあるけれど、「こう思う」とか「こう考える」といった話は総じてあまり長くつづけられないようで、少なくとも高いエネルギーレベルは維持されない。話しっぷりは闊達で一見エネルギッシュでも、目の輝きはそれほどでもなくなっていったり。

 それは「思考」というものが、いまこの瞬間の自分に比べて常に少し古いからだと思う。

 私たちの頭の中には、過去の自分が考えたり、まとめた事々がたくさん並んでいる。「こういうことが大切だ」とか「こんなふうに生きてゆくべきだ」とか。その中には、もちろん本人にとって重要で大切なことが多いだろう。けれど言語化されているということは内面で情報処理が進んだ結果なので、「感覚」に比べると鮮度が低い。

 他人の考えや、外から入ってきた情報も混ざりやすい。

 以前の自分の解説ではなく、「私はどんな存在で、どこへ向かいつつあるのか?」ということを人は語ってみたいし、その人自身も知りたいのではないかな。

 昔のエピソードを語るにしても、その来歴を経た自分の現在位置はどこなのか。その自分をいまどう感じているのか。そしていま、まさにどこへ向かいつつあるのか。それらを言葉にしてみたいんじゃないかと思う。

 そんなことが出来たときに喜んでいるように見えるし、語った側もきかせてもらった側も、双方が「今日は良かった!」という気持ちになっている感がある。内容に結論があろうと無かろうと、論旨が明確であろうとなかろうと、本人にとってより一致感の高い言葉で実感を表現出来ているとき、その人は存在の輪郭をハッキリとさせる。「生きて」「いる」感じが、より強まる印象がある。

 

P241 

 先日、伊藤ガビンさんという編集者を招いて、彼がいま試してみようと考えている事々を話してもらうトークイベントを開いた。・・・

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 ・・・ガビンさんの話を聞きながら印象深かったのは、「これからどうしよう?」と自分自身のサバイバルが心を占めている人が多そうな昨今の状況下において、彼は自身のサバイバルについては「まあどうにかなるだろう」くらいに考えていて、当日語られた「試してみたいこと」の大半が「この社会のこういう部分をもう少しこう出来ないかなー」というものだったことだ。

 彼は社会起業家でもなければソーシャル・デザインといった言葉も使わない。でも仕事をつくるということは、この社会の中で「いま何が出来るか」を考えて、それを実行することなんだよな、とあらためて思ったのです。

「どう助かろうか」と自分のことばかり考えていると僕は力を失ってゆく感じがする。力の重なる部分がないからだろう。

 

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 その局面における整合性のなさに耐えきれずに、簡単に問いを引き下げたりなかったことにして、これまで通りのことをこれまで通りのやり方でつづけるのでは、生きている甲斐がない。

 僕個人としては、納まりの悪い事実を味わいながらジタバタする自由を大切にしたい。具体的で身近な事々について、その工夫を施してゆくことに自分の力を使うことが出来れば、さぞかし面白い人生になるだろうと思う。そうします。