今だけでいい

目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

 印象に残ったところです。

 

P75

 ・・・白鳥さんは、吐息で紙吹雪でも散らすように「俺はどっちでもいいな。明日死んでもいい」と言った。

「えー!どうして。ゆうこさんが悲しむでしょう」

 白鳥さんには自他ともに認めるラブラブなパートナーがいる。ねえ、そのひととの別れは辛くないんですか。

「いやあ、どの時点で死んでも、結局は後悔するような気がするの。なにかをやり遂げたら満足、もうこれで死ねるっていうのはない気がするんだ。だから、そこは望んでない。それでさあ、過去のことも過ぎ去っていくとどんどん記憶が変わったり、忘れちゃったりするじゃない?それで未来のこともよくわからない。そうすると、結局のところ、ちゃんと自分がわかっているのは『いま』だけなんだ。だから、俺は『いま』だけでいいかな。過去とか未来とかじゃなくて『今』だけ。だから、俺はもう明日死んでもいいと思う」

 

P193

 そもそも、どうして白鳥さんは写真を撮り始めたのだろう。

「写真を始めた当初は、なにか盲人ぽくないことをやったらどうなるのかなって。美術館に行ったのと同じように、写真を撮ることで自分の価値観を変えられるんじゃないかと思ったりして」

「それで、実際に価値観が変わったの?」

「いや」

「それでも撮り続けてるんだよね?じゃあ、写真を撮るモチベーションも変わってきた?」

「そうみたい。いまとなっては『読み返すことのない日記』という説明は間違ってはいないんだけど、なんか言葉足らずっていうか、これも違う気がしてる」

「写真はなにかに向けて撮ってるの?」

「前は音がする方向にカメラを向けて撮ったりしてたけど、いまはそういうことも考えてない。気分がいいとシャッターを押しちゃう。この間、ある写真家のひとと話をしていて、そのひとはほかの写真家が撮影した作品を見ると、なにに向けて作品を作っているのか、その意図がある程度わかるって言ってたんだよ。じゃあ、俺の写真はどこに向いているのかなって考えると、ああ、俺はどこにも向いていない写真を撮ってるんだって思ったんだ。俺の写真は自分にしか向いてないんだって。そしたら、作品としていいかも。写真家になっちゃうか、みたいに思ったよねえ!」

 ・・・白鳥さんは、無理にそれらしい理由とか説明をつけようとしない。とにかく、事実として白鳥さんは雨の日以外は写真を撮り続けている。雨の日は、傘と白杖で両手がいっぱいなのでカメラは持てない。

 

P247

「・・・俺はなんか自分が存在している感覚が希薄なんだよねー」

 は?どういうこと、とわたしは聞き返した。

「だってさあ。数年前の自分といまの自分が同じだって、不思議だと思わない?」

 言葉の意味がつかめないまま、「そうかな?」と相槌を打った。

 ・・・

「だってさあ、過去の記憶って思い返すたびに上塗りされているわけだから、どんどん変わっていくわけじゃない?そういう意味では、自分の記憶だと思っているものは、常に新鮮な状態の〝過去の記憶〟じゃない?」

 ・・・

「だからさあ、こうして誰かと話したりしてれば、いま自分がここにいるというのは間違いないと思うんだけど」と白鳥さんは言った。

 ・・・

「ねえ、それって実際に顔を合わせることで、いろんな情報を受け取っているってことだよね。ということは、鑑賞のときも言葉とか会話はひとつの情報でしかなくって、空気とか雰囲気とか、そういうものから多くのものを受け取ってるってことだよね」

「そうそう、そのひとがどっちに向いて話してるのかとか、声の大きさとか。距離とか」

「なるほど、大切なのは言葉とか耳からの情報だけじゃないってことか」

 そっかー、そういうことか!少し興奮して、身を乗り出した。

 わたしは、自分の巨大な勘違いに気がついた。それまで、白鳥さんは言葉や会話から多くの情報を受け取っていると思い込んでいた。・・・しかし言葉が運ぶものは「多くの情報」かもしれないが、「情報の多く」ではなかった。この違いは大きい。

 そうだ、例えば声。人間が発する声というのは、ただの言葉の乗り物ではない。

 ・・・

 わたしたちの身体もまた多くのメッセージを発している。匂い、仕草、体温。・・・そういう皮膚感覚や耳や鼻からの情報のすべてが重層的に重なり合ってひとつの記憶になる。

 ・・・

 ボルタンスキー展のあと、白鳥さんはふっと「過去も未来もわからないから、俺はいまだけでいい」と言っていた。あれはカッコつけなんかではなく、彼はかなり本気で「いま」ここにいる「自分」しか確かなものはないと感じているのかもしれなかった。