洞窟ばか

洞窟ばか~すきあらば前人未踏の洞窟探検 (扶桑社新書)

 この本のタイトルは、これしかなっただろうなぁと・・・そんな魅力があったらそれは中毒になるわと思ったり、いやいや過酷すぎて無理無理と思ったり、未知の世界を垣間見ることができました。

 

P16

 自分が洞窟探検をしているという話をすると、10人中8~9人ぐらいはこう尋ねてくる。

「どうして洞窟探検なんてやっているんですか?」

「洞窟探検の何が楽しいんですか?」

 ・・・

 だから、まずはその疑問に答えたい。

 なぜオレは洞窟を探検し続けるのか?―その答えは単純だ。洞窟には正真正銘の「未知」があり、その未知なる世界に「行ってみたい」「見てみたい」と猛烈に思うし、いざ未知の空間に到達できれば、途方もない「感動」を味わえる。腹の底から「ドキドキ」「ワクワク」できるからだ。

 

P141

 この地球にはまだ誰も見たことがない、行ったことがない空間があったとしたら。そこはどんな世界なのか?どうなっていて何があるのか?ひょっとしたら見たことがない想定外のすごい世界がまだ残されているんじゃないか?想像力と好奇心、探求心を刺激する、決して外から簡単に見えない洞窟には、福袋の中身を見るような楽しさがある。

 いつまで探検が続けられるか?どこまで到達できるか?生きている人間には限界というものがあるが、少しでも先に行くためにストイックに必要なスキルを磨いている。

 自分の人生を全部、探検に費やしても後悔はない。人生の成功とは、いい教育を受けて、いい学校を出て、いい就職をして、いいパートナーを見つけて、車を買い、家を建てて……その先は?同じ目標に向かっていろいろなものを勝ち取っていくことがすばらしい人生だと、全員が同じように思うことはない。人生の目的、生きがい、やりがい……人はそういうものに生きる価値を見出す。そして選択は自由だ。たまたまオレは洞窟に出合って、探検することによって身震いするほどの感動を知ってしまった。もっとほかにいい生き方があるんじゃないか?探検家であっても迷いや疑いの気持ちはある。ほかに見つかるまでは見つけて選択したことを追求していくだけだ。ほかにもっといことを見つけたらあっさり切り替えればいい。人生は短いから迷う時間さえもったいない。思ったらすぐ行動して、ダメだったらすぐに切り替える。探検家の資質は人生の選択の役に立つんだ。

 

P162

 オレは何事に関しても、あらかじめ計画を綿密に考えて……という性格ではなく、その場の直感に従って決断し行動するタイプである。これまでの人生、かなり行き当たりばったり、計画性はゼロに等しいと言える。

 そして、それはオレの人生とほぼイコールである洞窟探検においても当てはまる。

 ただ、洞窟で計画が立てられないのは、オレの性格的な問題と言うより、洞窟探検という行為そのものが本質的に「計画を立てること」にそぐわないという事情も多分にある。

 なぜ洞窟探検では計画を立てられないのか?答えは簡単で、「目的地が決まってないから」である。計画は、目指すべき目的やゴールがあって、はじめて立てられる。しかし、未踏の洞窟を探検する際には、まず洞窟の入口がどこにあるかわからないし、仮に入口が見つかったとしてもその奥にどんな空間が広がり、どこまで続いているのか、何もかもがわからない。自分がどこを目指し、何をもってゴールとするのか、事前に決めることは不可能なのだ。決められるのは、いつ戻るかぐらい。

 さらに、ひとたび洞窟に入ってしまうと、昼夜の感覚、時間の感覚がいっさいなくなってしまうことも、計画を立てられない大きな原因である。

 ・・・

 じゃあどうしているのかと言えば、動けるようならばガンガン動いて先に進むし、腹が減ったら「そろそろ飯にするか」となる。「疲れたなぁ」「眠いなぁ」と思ったら休む。要するに、そのときどきの体の状態や感覚に従って行動しているのだ。疲れて眠くなったとき、「何時に起きよう」とか考えたことはなく、頭と体が目覚めて「よしやるぞ!」となるまで寝ている。36時間ぐらい寝まくったこともある。

 そんな毎日を過ごしていると当然体のリズムも狂ってくる。ふと時計を見て、「5時」を指していたので、「まだ夕方の5時か」と思ったら、実は朝の5時だった、なんてこともあった。

 洞窟をやるようになって、いかに人間が太陽のリズム、つまり1日24時間というサイクルに拘束を受け、それに合わせるために行動を左右されているか、と言うことがかえって実感できるようになった。・・・

 時間という、ある意味人間にとって絶対的なものさしにも支配されることなく、ただただ自分の体の感覚ありきなのだ。