新しい道徳

新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎文庫)

 ヒデミネさんの道徳の本を読み終わったら、たけしさんの本が目にとまったので、読んでみました。

 あまりに真っ当で、驚きました。

 

P22

 道徳の言葉は、なんだかとても薄っぺらい。どのくらい薄いかというと、「トイレを綺麗に使いましょう」と書かれた貼り紙くらい薄っぺらい。

 もちろん、トイレは綺麗に使った方がいいとは思う。俺は汚いトイレを見ると、掃除をせずにはいられない。飲み屋でトイレに入って、前の人が粗相をしていたりすると、つい掃除をしてしまうのは昔からの癖みたいなものだ。今までいったい何遍、見ず知らずの他人が汚したトイレを掃除したことか。

 だけどそれは「トイレを綺麗に使いましょう」という貼り紙を見て、そりゃそうだよなあと納得してやっているわけではない。そこが、根本的に違う。「親を殺してはいけません」「お金を盗んではいけません」「レイプはしないようにしましょう」というのと同じだ。

「嘘をついてはいけません。正直に生きなさい」

 これは、道徳の定番フレーズだ。なんだか表面的なことしか書いていないわりに、けっこう矛盾したことをいっている。

 道徳の教材に、こんなイラストがあった。電車の席に座った子どもが嫌そうな顔をしている。隣の大人は眠ったふりをしている。目の前に年寄りが立っているからだ。大人も子どもも、席を譲りたくないんだろう。

「こういうときは、どうすればいいか、みんなで考えましょう」

 一応、みんなで考えて答えを出すことになっているわけだが、正しい答えはもちろんはじめから決まっている。「席を譲らなくてもすむように隣の大人と同じように眠っているふりをする」という答えに、まさか先生がマルをくれるはずはない。「どうぞ」といって年寄りに席を譲るっていうのが、正解なのだろう。

 ……これは、嘘じゃないのか?嫌そうな顔をしているのは、席を譲りたくないからだろう。その気持ちには正直じゃなくていいんだろうか。

 ほんとうは座っていたいのに、年寄りには喜んで席を譲るふりをする。

 これは子どもに嘘をつけといってるのと同じことだろう。

 それで、いいことをすると気持ちがいいよ、なんて書いてある。

 ・・・

 俺が子どもの頃は、年寄りに席を譲るのが当たり前だと教えられた。年寄りが立っていて、子どもが座っていたら、生意気だってひっぱたかれたものだ。

 ・・・ 

 ところが、今の道徳では、年寄りに席を譲るのは、「気持ちがいいから」なんだそうだ。

 ・・・

 年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。美意識の問題といってもいい。

 マナーにわざわざ小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。

 だいたい、隣のおやじが寝たふりをしているのが、そもそも駄目じゃないか。

 大人が率先して席を譲って、子どもにこれがマナーだよって教えてやらなくてはいけない。

 それを真似して席を譲って、辛そうに立っていた年寄りに「ありがとう」といわれて、それで「ああ、なんだかいい気分になった」というのが順序だろう。

 ・・・

 誰かに親切にして、いい気持ちになるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。

 それをクスリの効能書きかなんかのように、いいことをしたら気持ちいいぞ、気持ちいいぞ、って書いてあるのが道徳の教科書だ。薄っぺらいにもほどがある。

 

P37

「どのようなときに、『生きている』ことをかんじますか」

 これも小学一・二年生の道徳の教材に書いてあった言葉だ。

 答えの例が、またすごい。

「心ぞうがどきどきする」

「気持ちよくおきる」

「楽しく勉強する」

「手があたたかい」

「おいしく食べる」

「楽しくうんどうする」

 小学生が、自分の胸に手を当てて「ああ、僕って生きてるなあ」なんて考えるのだろうか。・・・

 大人だって、自分が「生きている」なんて感じながら仕事をしたり飯を喰ったりはしない。・・・

 そういうことを感じるのは、病気で入院してようやく退院するときとか、海で溺れかけたときとか、要するに、死を意識したときでしかないはずだ。そういう意味では、他人の葬式も「自分は生きてる」って感じる数少ない場面かもしれない。

 どのようなときに生きていることを感じますかって聞かれて、「誰かの葬式に出たとき」なんて答えたら先生に怒られるだろうけど。

 交通事故にあって、病院で目が覚めたときは、誰だって自分は生きていると感じる。砂漠をさまよって命からがら辿り着いた泉で、何日かぶりに水を飲んでいるときは、どんな人間でも生きていると感じる。たとえそれが泥水だとしてもだ。

 死との比較があって、はじめて生きているという感覚が生まれる。

 ・・・

「どんなときに『生きている』ことをかんじますか」という章のあとには、「生きものをたいせつに」という章が続いていた。

 そして、またもや質問だ。今度は「どんな気持ちで生きものを育てましたか」と。

 これも答えは決まっているようなものだ。

「うちは牧場をやってます。生きものを育てるのは、お金になるからです」

 そういう答えは、誰も求めていない。結局、生きものに優しい気持ちを持ちなさいと子どもに強制しているわけだ。

 子どもにこう感じなさいとか、こう思いなさいとか、無理強いするのが道徳教育だとすると、それはいくらなんでも危ういと思わないか。

 

P63

 夢なんてかなえなくても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。

 俺は心の底からそう思っている。

 どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。

 お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。

 贅沢と幸福は別物だ。慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。人生はそういう風にできている。

 そんなことは、誰でも知っている。

 だけど、そんな大切なことも教えないで、夢を追いかけろという。頑張って勉強して、スポーツやって、起業したり、有名人になったりしなければ、幸せになれないと脅す。

 そうしないと経済成長が止まって、大変なことになってしまうからだ。

 だけど、大変なことになるのは、いったいどこの誰だろう。

 少なくとも、清く貧しく美しく生きている奴ではない。