いつもの流れの中に最後があったらいいな・・・と思いつつ読みました。
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一九七一年一月十日。
その日は日曜日だった。働くことのできない大嫌いな日曜日だった。孤独に過ごさないために、いつも誰かを誘っていたが、その日の相手はクロード・ドレイだった。心理学者で作家のドレイとは親子ほど年齢が離れているが、十年来の友人だった。
いつものように化粧をした。厚化粧だと言われていることは承知していた。けれどシャネルには化粧に関しても信条があった。
化粧は、他の人のためにするのではなく、自分のため。
足にもクリームを擦り込み、ふんだんに香水をつけ、部屋係のセシルを呼んで着替えをした。ドレイとシャネルはリッツのレストランへ出かけ、目立たない席で昼食をとった。
シャネルは塩気の少ないハムとリンゴ添えの牛肉、メロンを食べた。飲み物はいつものドイツワイン、リスリング。珈琲を飲み終えると、二人は運転手つきのキャデラックでブローニュの森にある競馬場に出かけた。現代美術館の前を通ったとき、シャネルはサルバドール・ダリの名を懐かしそうに口にした。
競馬場からの帰り道、夕陽が辺りを染めていた。夕陽は大嫌い、サングラスを持ってくればよかった、とつぶやいた。リッツに到着するころにはすっかり日は暮れていた。
リッツの正面玄関でシャネルは言った。
「明日は一緒に昼食はとれないわ。会いたかったらカンボン通りにいらっしゃい。仕事をしているから」
ドレイがシャネルから聞いた最後の言葉だった。
二時間後、ドレイは部屋係のセシルから電話を受けた。シャネルは夕食を部屋でとり、ベッドに入った。不快感に襲われて、あわてていつもの注射をした。手が震えてアンプルを割ることができなった。部屋係のセシルがそれを割った。
「ほら……、こんな風にして人は死ぬのよ」
これが最後の言葉となった。シャネルは死んだ。八十七歳だった。
眠るためだけの、じつにシンプルなリッツの部屋で、死んでいった。クローゼットにはスーツが二着かかっているだけだった。それはシャネルが信頼していたお針子のマノンが縫った、白地とベージュ地にそれぞれ紺の縁取りをした、シャネルスーツだった。