楽になる

目の見えない白鳥さんとアートを見にいく

 みんなが楽になる・・・世界が広がるってそういうことかと思いました。

 

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 好きなひととデートがしたいと初めて美術館に足を運んだ白鳥さん。その楽しい時間がきっかけとなり、美術館へのアプローチが始まった。

「自分は全盲だけど作品を見たい。誰かにアテンドしてもらい、作品の印象などを言葉で教えてほしい、たとえ短い時間でもいいのでお願いします」と粘り強く美術館に電話をかけ続けた―。

 白鳥さんは別にライフワークにしようなどと思っていたわけではないらしいが、結果的には美術を見る行為を通じて、それまで「見えるひと」に対して感じていた引け目や「見える」と「見えない」の間の壁が取り払われていったという。

 そのきっかけになったのは、ふたつのできごとだ。・・・

 その日は、とても長い日だったらしい。

 いまでこそ白鳥さんは「自分たちが好きなものを選んで見ていこう」「疲れたらやめよう」というスタンスだが、当時はまだまったくの手探り状態だった。それは、アテンドしてくれた美術館のひとも同じで、その日ふたりはなんと一点ずつ時間をかけてじっくりと全作品を鑑賞した。おかげで全七三点を見終わるまでに三時間以上もかかった。

「俺はもうヘトヘトで、そのひともずっとしゃべっていたから、相当疲れたろうなと思って、お礼を言おうと思ったら、向こうから先に『ありがとうございました』って言われちゃって。あれ、どういうことだ⁉って。どうやら展覧会の企画側にいても、作品をそこまでじっくり見る機会ってなかったみたいで。むしろありがとうございましたって言われて、驚いた」

 助けてくれているようで、実はそのひとも一緒に見ることを楽しんでいた。いつもいつも「ありがとう」と言う側だった白鳥さんが、「ありがとう」を言われる側に逆転した瞬間だった。

 ふたつ目は、「目が見えるひとも、実はちゃんと見えてないのではないか」と感じさせる面白いできごとだ。・・・何枚かの絵を見たあとに男性は、一枚の作品を前にして、「湖があります」と説明を始めた。そのあとに「あれっ!」と声をあげ、「すみません、黄色い点々があるので、これは湖ではなくきっと原っぱですね」と訂正した。男性は「自分は何度もその作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思い込んでいた」と驚いている。

 それを聞いた白鳥さんは仰天した。

「ええ⁉湖と原っぱって全然違うものじゃないのって。それまで〝見えるひと〟はなんでもすべてがちゃんと見えているって思っていたんだけど、〝見えるひと〟も実はそんなにちゃんと見えてはいないんだ!と気がついて。そうしたら、色々なことがとても気楽になった」

 

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 ・・・森山さんは初めて白鳥さんと一緒に鑑賞したあと、「本当にあれでよかったんだろうか」とモヤモヤしていた。そして一年後に参加したワークショップで偶然に白鳥さんと再会し、白鳥さんと一緒に研修やワークショップを企画したりするようになる。・・・

「一緒に鑑賞することは、白鳥さんの喜びというのもあるのですが、目が見えるわたしたちもその活動からたくさんのものを得てきたし、水戸芸術館の内部でもまた変化が起こりました」

 ・・・

 時を経てみれば、白鳥さんが美術に出会うことで起こった変化は、なにも彼自身のことにとどまらなかった。彼という存在に触れたひとたちの意識や人生もまた変わり、静かな湖面に立つさざ波のようにすーっと遠くまで広がっていた。

「でも、こうした活動を通じて言えるのは、なによりも自分が楽になることですよね。いろんなひとがいて、どんな状況でもやっていけるって」と森山さんは続けた。

 ・・・

 ・・・森山さんはふと「実は、わたしの娘はダウン症なんですけど……」と語り始めた。

 ・・・

「・・・生まれてきて娘がダウン症とわかったときはびっくりはしましたが、わりと落ち着いてすっと事実を受け入れられたのは、自分が関わってきたいろんなひとや活動に助けられたんだなって思います」

 そうして森山さんは、「さらに娘の存在から得たこともとても大きくて、落ち着いてこの仕事をしてこられたのは、彼女のおかげだったと思います。彼女が数少ない語彙の中から届けてくれる言葉はとても美しくて、その言葉は辛いできごとに直面したときに、わたしを何度も慰めてくれました」と語った。