死ぬための教養

死ぬための教養 (新潮新書)

著者が、死を受け入れる準備のために様々な本にあたり、考えたことが書いてある本を読みました。
その中で紹介されてたこの本↓おもしろそうです。

P53
『地球・宇宙・そして人間』(徳間書店)の著者である松井孝典さんは一九四六年生まれの地球物理学者。静岡県出身ですので私と同郷です。・・・
 この中で、とくに私が好きな一説があります。
「ぼくは、宇宙とは自分の脳みたいなものだと思っている。」
 私は養老孟司さんの『唯脳論』を読んで、現代はすべて脳が一つの宇宙であることに、なるほどそうだと納得したのですけれども、逆に松井さんは、宇宙は自分の脳ではないかという書き方をしている。さらに、「ぼくにとって四十六億年はつい一昔前のこと」と言い切る、この人の発想の大きさ。四十六億年がついひと昔前のことなら、いつ死んだって構わないという気になります。
 第十章のタイトルがいい。「人間はなぜ、何のために存在するのか」。
「人間はずっと昔から<宇宙とは何ぞや>と考え続けてきた。そして宇宙の実体がどのようなものであるかを人間が考えるからこそ、逆にいえば、宇宙が存在する意味があるとも考えられる。<宇宙とは何ぞや>という問いを人間が発してくれなければ、極端な話、宇宙などあってもなくてもどうでもいいことなのだ。」
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「宇宙の年齢は百五十億年から二百億年と考えられている。太陽系の年齢はまだ五十億年に満たないのだから、たとえば百億年前にも人類がいて宇宙のことを考えていたと想像しても何の不都合もあるまい。
 また別の時代に、この宇宙の別のところに人類がいて、<宇宙とは何ぞや>と考えていた。<水惑星>が誕生し、そこで生命が発生する限りにおいて、それは人類だとぼくは思う。ぼくたちではない人類が宇宙のそこかしこにいて、宇宙のことを考えている。そういう宇宙にぼくたちは住んでいるのだと考えることもできる。
 そして人間の役割とは、ひょっとすると宇宙の究極の構造を理解し、宇宙がなぜ存在するかということを理解することにあるのではないかとも思ったりする。<宇宙とは何ぞや>を理解したところで、人間はその役割をまっとうする。そして、すべては振り出しに戻る―。」
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 人間存在を科学的に、宇宙論的視点から考えるわけです。宇宙から人間を考えるという視点で、こういう壮大な構想の本に会うと、やはり自分が四十六億分の一ミリの存在に過ぎないと思わせられる。ああ、おれはホントにちっぽけなちっぽけなのみの屁のような存在なのだと気づいて、ひどく安心してしまう本なのです。・・・