猫だましい

猫だましい (新潮文庫)

 一週間ぶりに再開です(^^)

 河合隼雄さんの本を久しぶりに読みました(単行本で読んだので、上記の文庫とはページ数が異なります)。

 たましいの顕現としての「猫」に焦点を当てた連載がまとめられたもの。

 こちらは本筋とちょっと違いますが、印象に残ったところです。

 

P69

 ・・・もう三十年も以前の話である。高等学校三年まで場面緘黙を続けてきた男性がいた。それまでに、いろんな人が彼に口をきかせようとしたが無駄であった。彼は家庭では話すが、家の外では絶対に話さない。学校では一切話をせず、筆記試験だけは全部、答案を書き、進学して高校三年まできた(私立学校だったので、いろいろ配慮してもらっていた)。

 緘黙の人に会うのは大変である。それでも子どもだと一緒に遊べるのでいいが、高校三年生だと遊びもできない、対面して椅子に坐ったものの、どうしようもない。私は何か心にひらめいて、私がよく使っているロールシャッハ検査の図版を見せた。これはインキのしみのような図で、人によっていろいろなものに見えるものだが、「これ何に見えますか」と尋ねてみると、何と彼は「人の顔みたい」と答えた。これには私が驚いてしまった。その後の図版にも、彼はちゃんと反応してくれた。

 「何だしゃべれるじゃないか」と思ったものの、私は彼と向き合って何を言っていいのかわからない。下手なことを言って心が閉じてしまったら困る。というよりも、彼と向き合っていると、こちらの方まで何だか舌が動かなくなってしまう。

 どうしようかと焦っていると、彼が「あの、ここの本を何か見てよろしいでしょうか」と言う。私はほっとして「どうぞ」と言うと、彼はそこにあった美術図鑑を取り出して、パラパラと見はじめた。ともかく緊張はほぐれたが、私は次にどうすればいいか。何でも相手まかせでいこうと思っていると、しばらく彼は図鑑をあちこち見ていたが、ふと顔をあげて私を見つめ、「あの、飛鳥時代天平時代の仏像の差について申しあげたいんですが」と言う。図鑑の仏像を見て思いついたらしい。「どうぞ、どうぞ」というわけで、その説明を拝聴し、よい頃合を見て、「また来週も話合いに来ますか」と尋ねると、「はい」と笑顔で応じた。

 次週、彼は大分予習をしてきたようだった。「今日は、鎌倉時代の歴史について述べます」ということで、私はときどき質問しながら、歴史の勉強をした。このようなことが続くうち、私は彼が何をするために、一時間以上も乗物に乗って会いにくるのか、と考え、はたと思い当った。彼はその十八年近い生涯で、はじめて家族以外の人に話すという大変なことをやっているのだ。そのとき、絶対に確実で、相手の反論を引き出したりしないもの、相手の感情を傷つけないもの、として「歴史」を選んでいるのではないだろうか、と思ったのである。私は身を入れて話を聴いた。

 それ以後、彼はテレビの番組編成を覚えてきて、「月曜日の六時には……」という調子で話をする。確実なことだが、彼の気持が少しかかわる現代のことに話題が変わってきたのだ。このようにして、だんだんと話は展開していくが、その後の経過は割愛することにしよう。ともかく彼は学校での話をするようになり、随分と元気にもなった。「あの子がしゃべれるようになるなんて、どんな指導をされたのですか」と高校の担任の先生は不思議がっておられた。「成績も大分よくなりましたが、なぜか歴史だけは特別によかったですね」ということであった。