この世あそび

この世あそび: 紅茶一杯ぶんの言葉

 ちょっと不思議な読み心地の本でした。

 

P86

 旅の記憶のなかで、いちばん最初に古びてしまうのは何だろう?観光案内?見どころの説明?巷にあふれている、おきまりの情報、知識といったものではないだろうか。

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 知りたい、と思うと同時に、知りたくないと思う。

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 知ったつもりで、はい、あがりになり、思考停止、消化不良に陥るのを案じているのだろうか。

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 ほんとうの「知る」とは、世界の秘密に触れることだ。

 そうか、そうなんだ、と驚く。膝を打つ。何がどうだと言葉にならなかったとしても、腑に落ちる。

 ほかの人には何でもないことが、ある人には〝世界の秘密〟であり、宝物であるかもしれない。とても個人的な出来事なのだ。

 こんなことを書いていて、思いだされる光景がある。

 あれは二十代。アメリカのバークレーに一年だけ暮らしていた。住んでいるふりをして、じっさいは長い旅人だったような気もする。

 町の中心にカリフォルニア大学バークレー校があり、六〇年代の亡霊と目されるヒッピーやホームレスが通りや公園のそこかしこにたむろしていた。ベトナム戦争反対運動はじめラディカルな市民運動をつぎつぎに発信してきた町だ。

 その日、「ブラック・オーク・ブックス」をのぞいた後、まぶしいシャタックアヴェニューに出てゆくと、数メートル離れた路上に、ひとりの浮浪者が正座していた。

 にわか雨の後の水溜りが、歩道の隅っこに光っている。それを鏡の代わりにして、男はゆっくりと髭を剃っているのだった。

 剃刀をもつ長い指、よく日焼けした半眼の相に惹きつけられた。まるで人生最後の一日のようだった。あるいは浮浪者最後の?そんなふうに感じたのは、これまでどんな顔の上にも見たこともないような至福が、男の顔に浮かんでいたからだ。

 彼が目を落としている先には空が広がり、白い入道雲が立ちあがっていた。そのとき、子どものころの感覚を思いだした。

 水溜りのなかに入り、長靴でちゃぷちゃぷやっている。ゆらめく水面、はねる水しぶき……。ふと見下ろすと、あの驚愕がやってきた。

 じぶんが空のなかに立っている。まっさかさまに落ちてゆきそうな深い深い青色の真ん中に!

 わたしはずいぶん長いあいだそこに突っ立って男を眺めていたのだろうか?目が合った覚えも、立ち去る姿を見た覚えもないから、ほんの数分、もしかしたら数秒のことだったかもしれない。

 あれから長い歳月が流れたというのに、この記憶はくたびれず、色あせず、古びることがない。

 折りにふれて思いだされ、いまも目の前にあるように光彩を放ち続けているのは、あのときあの場所で、男が瞬間を生き、わたしもまた瞬間を生きていたからだろう。

 

 ところで、1週間ほどブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^-^*)