オードリー・タンの思考

オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと

 オードリー・タンさんの本、これで3冊目くらいですが、今回も、この方の言葉に触れると視界がクリアになるような感覚がありました。

 

P27

 祖母の話によれば、オードリーは生後8ヵ月で言葉を話し始め、1歳2ヵ月で歩き、1歳半で1度聴いた曲の歌詞をすべて覚えてしまうほど記憶力が優れていた。3歳頃には百科事典と出合い、1文字1文字覚えてしまうほど夢中になったという。

 彼は幼稚園に上がってからも、身体が丈夫でないために動作は遅く、走ったり飛び跳ねたりできなかった。また、他の子どもたちは興味を示さない「思考」などといったことに興味を持つなど、周囲との違いが目立ち始め、次第に周りの子どもたちは「変わってる」と、彼を排除し始める。

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「学校や先生、クラスメイトたちに風評被害があると申し訳ないので、これは絶対に訂正させて頂きたいのですが、私がいじめに遭ったのは小学2年生の1年間だけです。私は3つの幼稚園、6つの小学校、そして中学校は1年間だけど、10年間で10の幼稚園と学校に行っています。何かあったらすぐに転校するので、いじめがずっと続いていたわけではありません。転校の理由は、私自身の適性問題だった部分もあるのです」

 

 では、適性問題とはどのようなものだったのだろう。

 母親の著書によれば、小学校1年生の算数の授業で足し算を習う際、教師が「1+1=2」と教えると、オードリーは「それは進数を見るべきです。もし二進数だった場合、1+1は2ではありません!」と発言する……といった状況だったようだ。「小学1年で教えるのは整数と決まっているのに、いきなり負の概念を持ち込まれると困ります」と教師から苦情を訴えられたというエピソードが書かれている。

 以降、算数の授業になると、教師はいつもオードリーに図書館へ行って本を読んでいるように伝えるか、ゴミ捨てなどの雑用を命じたという。その後2年生のときに、彼は<ギフテッド・クラス>という、成績が突出した生徒が入るクラスのある学校へ転校した。だが残念なことに、彼はここで最悪の体験をすることになるのだった。

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 母親はギフテッド・クラスに入りさえすれば、オードリーの学校での生活はきっと良くなると信じていた。だが現実には、こういった特殊なクラスが設立されたばかりで当時の学校側にノウハウがなかったことも災いし、生徒たちは互いに嫉妬し合い、争ってばかりで、さらに彼を苦しめてしまう。

 あるクラスメイトが彼に放った言葉こそ、当時の教育問題の深刻さを象徴している。

「なんでお前は死んでくれないの?お前が死んだら、僕が一番になれるのに」

 この恐ろしい言葉を発したクラスメイトの父親は、自分の息子が1位の成績を取れないと体罰を与えていたのだった。

 

「私が転校した後、このクラスメイトは本当に1位になったかもしれません。でもそれは、その子どもの学力が上がって1位になったわけではなく、1位がいなくなったから自分が1位になったというだけなんですよね」

 オードリーは当時を振り返り、悲しげに笑う。

「でもこれは、その子が悪いわけではありません。7,8歳の子どもが生まれながらにして自分から好んでクラスメイトをいじめたりするはずはないのです。これは構造の問題です。当時の教育は子どもたちを比較し、競争させるものでした。だから保護者たちも自分の子どもを他の子どもたちと比べる。最後に最もその影響を受けるのは、子どもたちなのです。私は小学2年生の頃に半年間休学している間、この道理に気づきました」

 

 私は、ただ頷くことしかできなかった。小学2年生で、自分が日常的にひどいいじめに遭い、クラスメイトから「死ね」と言われた時に、こんな風に状況分析できるなんて。・・・

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 オードリーは、当時を振り返ってこう話してくれた。

 

「当時の教師は、『レジリエンスを育てなければならない』と言いました。悪い状況になっても、自らで克服する力のことです。また、台湾には『苦労を糧にする』という諺もあります。ですが、耐性をつけるために我慢することと、その苦しみの奴隷になるということは、非常に区別が付けづらいのです。『学習性無力感』といって、何もできることがないのだという感覚を一度背負ってしまうと、これから先にもし世界の不公平なことを変えられるチャンスが訪れても、長い間閉じ込められた鳥が飛び立てなくなってしまうように、何もできなくなってしまう。

 この時の私は、その極限を超えていました。筋肉を鍛えすぎると怪我をして、靱帯や骨を損傷すると一生回復するのは難しくなるように、当時の学校の状況は、私の極限を超えていたのです」

 この頃から、オードリーは父親に対して反抗的な態度を取るようになる。

「その頃の私の態度を『反抗期だった』と表現したくなるかもしれませんが、当時はまだ9歳で、そういった時期ではありません。また、私は父を不快に感じ、彼に対して反抗的な態度を取っていましたが、父以外の同居している家族を不快だと感じることはありませんでした。そして、この感情はその時期が過ぎ去れば治まるという類のものではなかったので、『反抗期』と呼べるものではありません。

 ではなぜ反抗的な態度を取っていたのか?その理由ははっきりしています。一人の人間が『痛い』と思うのは現象であって、それを体験した人のみが語る資格のあるものであり、他の人が『それは痛くない』と言うことはできないのだということです。ですから、当時の父が私に『学校に行くことはそんなに辛くない』として、学校に行き続けるよう言ったことは矛盾していました。私は絶対にそのことを彼に知らせる必要があったのです」