訪問診療をしている小堀先生と、糸井重里さんの対談。興味深く読みました。
P51
小堀 その人らしいなという亡くなり方をした患者さんは印象に残っています。例えば、「好きな酒が自由に飲みたい」と言い、そのとおり最期まで、ウイスキーのボトルを枕元に置いて飲み続けた人。
糸井 それはそれでかっこいいですよね。
小堀 脳梗塞による右半身麻痺で入院してたんだけど、極度のヘビースモーカーで、自由に喫煙したいからといって無理やり退院した人もいました。だから、自分の部屋からタバコの自動販売機まで往復できるようにリハビリしたんです。右半身が動かないのに、1年間の訓練で自力で自販機まで行けるようになったんですよ。それで、結局タバコを買いに行く途中だったのか、帰りだったのか、路上で倒れて亡くなりました。
糸井 全うしてますね。それでいうと、ぼくはどういう死に方をするんだろう。お通夜のにぎやかな人でありたい、とは前に思ったことがあります。みんなが楽しく、くだらない話でわいわい盛り上がるようなお通夜。それができたら、人生として最高だなと思うんです。
「バイバイの前まで笑ってたね」って言われたい。それはもう、ぼくのポエムみたいなものですけどね。
P73(糸井さんの語り部分)
年をとると、「100歳」という数字が近くに見えてくるんですよね。100歳って50歳くらいまでは、絶対登れない山として遠くに見えてるんですよ。でも70歳を超えてくると、「あれ、登れるんじゃない?」というくらい近くに見えてくる。その手前の90なんて、もう目前、みたいな。
本来、90や100は行かないかもしれない場所なんです。80で旅路は終わっちゃうかもしれない。とすると、終わりをめちゃくちゃ近くに感じます。
終わりが近くなると、20年後、30年後の世の中も「俺にはあまり関係がないのかな」と思えてくる。無責任に見えるかもしれませんが、ちょっといいこともあるんです。
先がそんなにないと思うと、ピリッとするんですよ。「なんでもはできないんだから、好きなようにやろう」と度胸が出る。・・・なんでもはできないなら、本当に好きなことをやらなければ。そういう覚悟や勇気が出てきます。
P91
糸井 身を粉にして、私生活を犠牲にしてやるからこそ、伝わるものがある。そんなふうに人は思い込んでしまいがちです。でもその思い込みを、小堀先生は思いっきり超えていらっしゃる。
小堀先生って、もちろんあたたかみもあるんですけど、あふれんばかりの情愛故に人に尽くそうと訪問診療をやっているわけではないように見えて。そこがいいなと思ったんですよね。ぼくは情が薄い自覚があるので、ちょっと似たものを感じたんです。
小堀 そうそう、ぼくは自分のやっている仕事を、使命だとか、人のためにやるべきだとか、思ってないんですよ。今でも新しい発見があって、おもしろいからやってるんです。
もう、自分の考えの及ばないことが次々と起きますからね。70近い歳の息子が90を超えた母親に対して、一緒にいると暴力をふるってしまうのに、離れるのは耐え難いと訴えてくる、とか。親子の情なのかわからないけど、すごいんですよ。・・・人間についての発見があるので、毎日フレッシュでいられます。訪問診療を始めて15年ですが、まだまだ新鮮な気持ちなんですよ。ここ最近の発見でいうと、「生かす医療」と「死なせる医療」のターニングポイントがある、と気づきました。
糸井 臨終の間際に外に出る、というのはもう「死なせる医療」に切り替えている。
小堀 そこから先は、助ける必要はないと判断しているわけです。臨終の問題でなくとも、容態が悪化したときに、入院させて治療すべきか、はたまたそのまま自宅で様子を見ているか、判断が必要なときがあります。・・・
切り替えのターニングポイントの存在に気づいたのは、ここ3年くらいのことです。医師だからといって、ターニングポイントを見逃さないわけでも、よく見極められるわけでもありません。まだまだ学ぶことがあると感じます。
P137(小堀先生の語り部分)
ぼくが在宅看取りをやっているからというわけではないのですが、両親はどちらも自宅で亡くなりました。・・・
どちらもぼくは死の瞬間に立ち会っていません。立ち会ってほしいと思っていなかったのではないでしょうか。ぼく自身、子どもに看取ってもらいたいと思いません。「親の死に目に会えないかもしれない」と心配している人がたまにいますが、親の気持ちも確認しないでナンセンスなことだ、と思います。一度、死ぬときにそばにいてほしいか、親に確認してみたらいいのに。
親のほうがよっぽど死を意識しているでしょうから、自分が口をパクパクさせて下顎呼吸しているところを見てほしいかどうか、より現実的に想像できると思うんですよね。意外と、子どもにそういう姿を見せたくない人は多いですよ。「死に目に会えないのは親不孝者」といった考えは思考停止の一つです。
一方で、親も「子どもの世話にはなりたくない」「迷惑をかけたくない」なんて言って看取りを拒否するのは、これまた思考の画一化です。生きている限り、何かしらの迷惑をひとにかけているものですから、終末期だけそれを気にするのはおかしい。
・・・
親の死に目に立ち会う気がなかったと言うと、感傷的な人間ではないと思われることがあります。でも、その一点をとって、感傷的かどうかは判断できないですよね。ぼくがすべてを話しているわけではないのだから。ぼくはドキュメンタリーの撮影をしている期間に、妻を亡くしました。もしかしたら、今でも寝る前に妻の写真を見て泣いているかもしれません。そんなことはせず、ぐうぐう寝ているかもしれない。どちらなのかは本人しか知らない。人間ってそういうものですよ。