こちらは1943年生まれのイヴさんと、1944年生まれのジャンヌさんのお話です。
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パリ全20区の中で人口が最も多い15区。毎日のようにどこかで朝市が立ち、病院も薬局も銀行もスーパーも生活に必要な場所は何でも歩いていける範囲にある、とても便利な住宅街だ。
イヴさんとジャンヌさんご夫妻は、地下鉄の駅からパン屋や肉屋、八百屋、花屋などが軒を連ねる賑やかな商店街を通り抜けて一本右に折れた通りにある、閑静なたたずまいの建物にお住まいだ。
イヴさんの仕事のために、30年前に移り住んだ、ドイツ国境に近いフランス北東部ロレーヌ地方の家を売却して、パリのアパートに戻ってこられたと連絡を受けたので、久しぶりに訪ねた。
6階のお宅は日当たりがよく、遠くにエッフェル塔を眺めることができる。ダイニングとリビングが一続きになっているので、とても開放感がある。
「広々として気持ちのいいお部屋ですね」
「僕にとっては、狭くて窮屈だけどね。以前は、寝室だけでも6部屋もある大きな一戸建てに住んでいたからね。コーヒーとお茶どちらがいい?」
「お茶をお願いします」
以前おじゃましたときも、イヴさんがお茶を淹れてくださったのを思い出す。
私「ご自宅の売却は、ご夫婦どちらが言い出したことですか?」
ジャンヌ「私よ。前もって考えて行動するのは私の性格。しかもどちらかというとペシミストなのよ。最悪の場合も想定して終活を始めたのよ」
イヴ「僕にとっては苦渋の決断だったけどね。向こうには友人もたくさんいるしね」
私「どうして今なのですか?」
イヴ「僕が2018年に75歳で、完全リタイアしたからね。収入の減少に応じて生活を縮小する必要があったからだよ」
ジャンヌ「私はその前から、二人そろって健康なうちに、取り掛からなくてはいけないと思っていたの。1軒の家を空にするのは時間も体力もかかることだから。家が大きくて、日頃の掃除がたいへんなうえに、電気代やガス代もかさむし、修繕費の出費も増える一方だったから、パリのアパートに戻って来てとても満足しているわ」
・・・
「私は、最終的には要介護高齢者施設に入居しようと思っているの」
ジャンヌさんの、あまりにも意外な発言に驚いた。
夫の転勤に帯同し、3人の子どもを育て上げ、9人の孫に囲まれ、自宅で舅姑の介護をして最期を看取り、彼女はこれまで家族のために自分を犠牲にしてきたはず。それにもかかわらず自分の老後は施設で過ごすと決めている。
お嬢さんもお孫さんもすぐ近所に住んでいるし、ご主人もお元気なのに、なぜそこまで決めているのだろうか。
「私は、誰の負担にもなりたくないの。絶対に家族に迷惑はかけたくないの。だからもし自分の身の周りのことができなくなったら、施設で介護のプロのお世話になるほうがいいわ。子どもや孫は時々会いに来てくれればそれでいいのよ」
ちらっとイヴさんの方を見て、
「あなたも、一緒に施設に入居してもいいのよ」とジャンヌさん。
イヴさんは、無言。
「でも、介護が必要になる前に死んでしまうかもしれないから、まだ先のことはわからないわ。最悪の場合を想定するのは私の性格だから」
考えてみると、ジャンヌさんは舅姑を自宅で介護し、つい数年前に見送ったばかり。口には出さないけれど、さぞかし大変な思いをなさったのだろうと想像できる。とりわけ、姑が亡くなった後の7年間の、一人遺された舅のお世話はたやすいものではなかったことだろう。その経験から「自分は絶対に家族に介護をさせたくない」という決心に至ったのだろう。
・・・
食事は、魚料理を中心にし、野菜と果物を多めにとるように心がけている、デザートの砂糖も控えめ。お互いに太らないように気をつけているそう。
それでも、家族や友人たちとレストランで食事をするときには、好きなものを食べることにしている。
「昨夜食べた子羊の煮込みはソースがたっぷりかかっていて美味しかった」
とイヴさん。本来は、かなりの食いしん坊のようだ。
健康のため、もうひとつ意識しているのは、毎日、規則正しい生活をすること。
イヴさんは、毎朝7時起床。ジャンヌさんは、7時半から8時くらいに起床する。夜中に何度も目が覚めるので、イヴさんより少し遅くなるのだとか。ジャンヌさんは朝食後シャワーを浴びて洗濯等の家事をすませ、午前中はゆっくり過ごす。
12時半~13時、キッチンでラジオのニュースを聞きながら昼食をとる。
昼食後は、二人とも30分くらい昼寝をする。
午後は、娘さんが仕事の時は、二人のうちどちらかが孫たちを学校まで迎えに行き、それから買い物へ。
19時半に夕食。
21時にはパジャマに着替えて寝室でテレビタイム。
ジャンヌさんはテレビを観ながら寝てしまうので、最後まで観て電気を消すのはイヴさんの役目だ。
自然な分担がほほえましい。
・・・
「50年以上の結婚生活を経てなお夫婦円満の秘訣は?」
「もめることもあったけれど、いつも二人でとことん話し合うようにしてきたこと」
とご夫婦で口をそろえる。
「その上で、自分が悪かったと思ったら、あやまることだね」
と、これはイヴさん。
インタビュー後、夕食をごちそうになった。
先ほどお茶をいただいた時のティーカップと同じビレロイ&ボッホ社のフレンチガーデンシリーズでテーブルウエアは統一されている。ビレロイ&ボッホ社は、ロレーヌの自宅近くの国境を挟んでドイツ側に本社工場があるので、ご夫婦で一つひとつ選んで購入された思い出の品だ。カトラリーはすべて銀製。
私「今夜は私がいるから、こんな素敵な食器を出してくださったの?」
ジャンヌ「毎日、使うことにしたのよ」
イヴ「引っ越し荷物を整理したときにね、僕の両親の食器セットも見つけたんだよ。でも、古くて家族は誰もほしがらなかった」
食器棚を開いて見せてくださる。すばらしい食器がずらりと並んでいる。
ジャンヌ「私たちの食器一揃いもね、クリスマスとかお誕生日とか、特別な日の食事のためだけに使ってきたのだけど、このまま大切に保管していても、娘や嫁が受け継いでくれるわけでもないから、普段使いにすることに決めたの」
私「銀のナイフやフォークも?」
イヴ「結婚祝いに頂いたものだよ。箱に入れてしまっていても仕方ないからね。毎日使うことにしたんだ」
ジャンヌ「私たちの年齢になったら、こうやって二人そろって食事ができるだけで、一日一日が特別な日なのかもしれないわね」
幸せな老後の秘訣は、夫婦円満なこと。そのためには、夫婦がお互いに思いやりを忘れないこと。そしてそれを行動で表すこと。
私が訪れた時だけでも、イヴさんがお茶のご用意をしてくださり、食事のご用意も片付けもご夫婦で手分けしてなさっていた。
そういった小さな日常の積み重ねが、幸せな老後につながっていくのだ。