こちらは70代の美智子さんのお話です。
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・・・最後にもう一人、どうしても紹介したい人がいます。フランス人ではなく日本人の女性です。
その人の名は美智子さん。
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美智子さんと出会ったのは、もう19年も前。私が新人エステティシャンの頃のことです。当時彼女は、古城めぐりで有名なロワール川のほとりにあるフレンチレストランのマダムとして多忙を極め、たまの休日にパリに息抜きに来るたびに、エステティックサロンにご来店されていました。・・・彼女がフランス人エステティシャンと言葉を交わすときの落ち着いた態度や何気ないしぐさはまるでフランス人のようで、あと何年くらいしたら私も彼女のような自然な振る舞いができるようになるのかと、羨ましく思ったものです。
美智子さんは、20歳の時に京都で知り合ったフランス人シェフのご主人と結婚して渡仏。レストランのマダムとして、一人息子を抱えながらも毎日くたくたになるまで働きました。そのかいあって、レストランは観光客だけでなく地元の常連客にも評判になり、一時は10人以上も従業員を抱える繫盛店になりました。
それから数年の月日が過ぎて、私もパリでの仕事にも慣れ、常連のお客様も増えて忙しい毎日が過ぎていきました。そんなある日のこと、昼食のために立ち寄った職場近くのビストロでウエイトレスとして働く美智子さんと再会しました。相変わらずの人懐こい笑顔で
「お元気ですか?お仕事はお忙しいですか?私はいろいろなことがあって、エステにも行けなくなってしまったのよ」
と話しかけられ驚きました。ビストロの常連客らしいフランス人とも親しげに話しながら注文を取り、料理や飲み物を次々に運んでいく手際よさはさすがでした。
美智子さんご夫婦はレストランが開店30年を迎えた頃、レストランが建つ敷地の所有者から立ち退きを迫られ、閉店せざるをえなくなったとのこと。その後ご主人は、北京のホテル内のフレンチレストランのアドバイザーとして中国に行くことになりました。もちろん彼からは美智子さんも同行してくれるように懇願されたそうですが、今さらまた別の国で一からやり直す気にはなれず、フランスに残る決意をして離婚したとのことでした。
そしてその際、実はご主人が美智子さんの労働を申告していなかったことが判明します(ご夫婦一緒に働く場合、美智子さんのような例はめずらしくありません)。つまり、30年間働き続けたにもかかわらず、老齢年金にも補足年金にも加入していなかったという事態が発覚したのです。このままでは、老後の生活費が心配です。
もうすでに60歳を超えていた彼女は、迷わずレストラン業の仕事探しを始めました。そして見つけたのが、今働いているビストロです。月曜から土曜日まで毎日、昼食のサービスを任されています。それだけでなく、夜のスタッフが足りない時には、ヘルプをすることも厭わず、経営者からも頼りにされています。
ところが働き始めて1年が過ぎた夏のはじめ、乳がん検診でしこりが見つかります。・・・
幸い初期の乳がんだったため術後の経過も良好で、一人息子以外周囲には一切何も告げずに、夏休み明け何事もなかったかのように仕事に戻ったそうです。その後3か月間、放射線治療のために仕事が終わってから毎日病院に通うことになります。
そんなある日のこと、病院帰りに道ですれ違った若い男性から
「マダム、そんなに下ばかり見て歩いていてはだめだよ。顔を上げてごらん」
と声をかけられます。びっくりして声の主に視線を向け
「だって、私、がんなんだもの。つらくて上を向く気になんてなれないわ」
と答えると
「マダム、あなたはこんなに美しいのだから、前を見て進まなくてはだめだよ」
とだけ言い残し、その男性は立ち去っていったということでした。
「あの頃の私って、離婚以来ずっと落ち込んでいたのよね。がんになったのも離婚によるストレスが原因だと思い込んでいたから。気持ちを切り替えるいい機会になったわ」
それ以来、彼女は下を向いて歩くのをやめました。
「パリの街並みって、ほんとに素敵よね。通りを歩いているだけで楽しくなるわ。でもあの頃は、地面ばかり見ていたのよ」
と目を輝かせながら話をする美智子さんは、とても70代には見えません。
2018年、結婚してパリ郊外に住居を購入した一人息子から、同居の申し出を受けました。美智子さんの老後を気にかけての提案でしたが、フランス人のお嫁さんからは、
「子どもも産みたいけれど仕事のキャリアも諦められないから、赤ちゃんの世話や、掃除洗濯、家事はお母さんにお願いするわね」
と、はっきりと宣告されたそうです。すると美智子さんは、
「冗談じゃないわ。お手伝いさんをするために同居するなんて考えられない。私には私の人生があるのよ」
と、きっぱりと断ったそうです。彼女はこの決断を後悔していません。
離婚時の取り決めで、ご主人から仕送りを受け取っています。パリで暮らすには十分な額ではないけれど、自身の給与と合わせれば、一人暮らしが続けられます。
「昔みたいに、エステに通うのは難しいわね。贅沢はできないけれど、小さなホールなら30ユーロくらいで素敵なコンサートを聴けるのよ。美術館や映画館も高齢者割引があるし、自由があれば楽しめることはたくさんある。海が見たくなったら鉄道の格安切符を探して、一人でふらっと出かけたりね。カフェのテラスで道行くパリジャンを眺めているだけでも面白いし。パリって、肌の色も国籍も言語も異なるいろんな人がいるのだもの。日々の生活の中で楽しむことを諦めたくないのよね。同居したらそんな自由がなくなってしまうでしょう」
彼女といると、まるでフランス人女性といるような気がします。なんて潔いのだろう。私が彼女の立場だったら、将来への不安から、きっと息子の誘いに乗ってしまうだろうから。
「疲れている時もあるわよ。もう若くはないから。でもきっと、働かなくてはいけないことが、私の元気につながっているのよ」
・・・
そんな彼女には将来への不安はないのでしょうか。
「働けなくなった時のことは考えないようにしているの。でももし、80歳を過ぎてからがんが再発したら、もう治療はしないと決めている。運命だと思うから」
フランスではがんと診断されると、検査も治療も入院費用もすべて国民健康保険でカバーされます。抗がん剤治療等で送迎の車が必要な場合は、タクシー代も負担されます。病院でお財布を出す必要は一切ありません。
それにもかかわらず、どうしてもう治療は受けたくないのでしょうか。
「日本にはもう家族はいないから、私はここで死のうと思っているの」
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美智子さんのように、そしてフランス女性たちのように、強く、潔く、前向きに生きる女性の姿は、いつまでたっても私の憧れです。でも裏返せば、我が道を行く彼女たちは、性格がきつくておそらくわがままで、日本人の私たちが一緒にいたら疲れることもあるかもしれません。それでも、やはり彼女たちを見ていると、とても元気をもらえるのです。