笑いの力

笑いの力

 講演会を記録した本、だいぶ前のものですが、おもしろかったです。

 こちらは養老孟司さんのお話です。

 

P48

 ・・・われわれ自身のなかで一神教的な考えがどれぐらい拡がっているかというと、一つ典型的なものは、「変わらない私」「ほんとうの私」ってやつです。若い人はネクラとかネアカとか言ってますけど、ネアカとかネクラっていうふうに言ってること自体が、すでに性格は変わらないという暗黙の前提を置いてます。ですから、ぼくは「宝籤にあたったネクラの人って見せてくれよ」って、よく言ってるんですけど(笑)、・・・

 ・・・いまの若い人は変わらない私がある、それがほんとうの私で、それが世界にたった一つの花だと、どこかで思ってますよ(笑)。それが自分の価値だろうと。

 どうして、死ぬまで変わらない自分がある、ということになってしまったのでしょうか。もともと日本人はなんて言っていたかというと、諸行無常でしょう。仏教じゃ、無我って、はじめから言ってるわけです。それはいま考えてるこの私がないという意味じゃないんですよ。十年前の私なんて、どこにもいやしない。十年前の私が仮にいたとして、いまの私と同じ人かっていうと、とんでもない話です。みなさん方がもし疑問があるのでしたら、お宅へお帰りになって、年配の方でしたら、つれあいの顔をじっとご覧になって、「この人と本気になって一緒になろうと思ったのは、どこの誰だ」と考えたら(笑)、人間変わるなんて当たり前の話であります。

 しかし死ぬまで変わらない私というのは、いま、前提になってきています。それはどこから来たかというと、たぶん間違いなく、明治に入ってきたもので、それを西洋近代的自我といっていましたね。私ってものがある、それを確立しなければならない、ということです。それは西洋から来たものに違いない。

 西洋人はなんでそんなばかなことを考えたのでしょうか。あの世界は、キリスト教一神教の世界ですから、聖書は世界の始まりを創世記として書くわけです。始まりを書いたら、終わりがなければおかしいんです。西洋人は、ものごとに始まりがあって、終わりがあると思ってます。・・・

 ・・・

 ・・・あなたはこういう人格をもち、こういう正確をもち、なんだか知りませんけど、ともかくこの世にたった一つの花で、「それがあなたの価値ですよ」といって、個の発見というやつですね。そこから先、政治も民主主義とかっていって、そうやってつくっていったわけでしょう。私は、そういうのをずっと教わって、その中で育ってきましたけども、よくよく考えてみると、なんのことはないんで、諸行無常で無我ですわ(笑)。そっちが本音なわけですよ。けれども、「変わらない私」というものを、われわれはどうもしっかり頭に入れちゃったみたいで。ですから、そちらの方でいくんですが、ときどき綻びが出る。

 そういうのが実は笑いの本質だろうと思ってます。つまり西洋人はどうして、日本人みたいな変なことにならないのかというと、それは二千年もやってるから、「変わらない私がある」というような考え方をとったときの具合の悪さということを、長い間に知ってきているんですね。そしてそれを修正する方法をちゃんと社会の中に組み込んでいるわけです。われわれの社会は諸行無常で無我でやってきたのに、それを明治以降百年で、急に変わらない自分にしていったら、無理が来るに決まってるから、無理が来てるわけですね。

 それで、どのくらい無理が来たかということをさらに申し上げるならば、変わらない私っていうものがあって、それがほんとうの私で、それに個性っていう価値があるのであれば、本質的に価値のあるほんとうの私が変わらないものであるなら、教育にはまったく意味がありません(笑)。変わらない人間を教えて、どうなるんでしょうか。・・・