他力本願

損したくないニッポン人 (講談社現代新書)

 他力本願、お任せでいきたいな~と思います。

 

P216

 親鸞の教えは「他力本願」、つまり南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀如来に身を任せよということである。あらためて親鸞が書いたとされる『顕浄土真実教行証文類(通称「教行信証」)』を読んでみると、「自力」と「他力」の違いについてこう記している。

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 「自力」の修行をする人は、地獄や餓鬼、畜生の世界に堕ちることを恐れるから戒律を保ち、戒律を保つから禅定を修められ、禅定を修めるから神通力を持てて、そこでやっとあらゆる世界へ行けるようになる。一方、「他力」のほうは、転輪王が行くのに従うだけで空にのぼってあらゆる世界に行ける、ということ。到達するところは同じでも、「自力」はいかにも遠回りで無駄も多いが、「他力」ならいとも簡単だと説いている。別の箇所でも、これを「頓漸対」(他力は速やかに悟りを開くが、自力は長い時を費やす)、「広狭対」(他力は利益するところが広く、自力は狭い)などと簡潔に表現する。「他力」つまり念仏は早く悟れて、利益が多い。念仏こそ「世間難信の捷経」(世間では信じがたい近道)と繰り返し説いており、ひたすら「損しない」道だと強調しているようで、「損したくない」という一念が込められているのである。

 早くてお得ということか。何やらクリーニング屋のキャッチフレーズのようでもあり、私などはゆっくり丁寧に仕上げるのもひとつの道ではないかと思うのだが、その弊害について彼はこう指摘していた。

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 ・・・仏教の修行には四つの善い事があるが、これらは悪の報いを受けるだろうと。一つは人より優れたいために経典を読む。二つには御利益を得るために戒律を守る。三つには他人を自分に従わせるために御布施をする。四つには非想非非想処(三界の最上位)に生まれるために心静かに思いをこらす。これらは善い事であるが、その人は迷いの世界に沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。なぜ沈むのかというと、実は迷いの世界にいることを願い求めているからだ、というのである。

 なるほど、と私は膝を打った。彼は目的を持つことの不合理を説いているのだ。悟るために修行するということは悟っていないことの確認でもある。修行を続けるということは、すなわち悟っていないことをずっと確認するようなもので、無意識のうちに迷っている状態を維持しようとするのだ。本当に悟りたければ南無阿弥陀仏。・・・