ニーチェとプナン

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

プナンの暮らしはニーチェの思想に通じる?おわりに、にこんな風に書いてありました。

 

P318

 ユニークな趣向のニーチェ本『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた』の主人公アリサは言う。「人生は無意味だから、自由に生きてやれというニーチェの言葉に感じたのが真新しさだった。〝人生には、生まれて来たことには必ず意味があるから、大切に生きようね〝というような言葉は耳にしたことがあったが、無意味だからこそ、自由に生きるという発想は、いままでの私にはなかったからだ」・・・

 そのように、ニーチェが近代的自我に対して別の生の可能性を喚起したのだとすれば、プナンもまたニーチェと同じように私たちに別の生の可能性を示してくれているのだと言える。プナンが日々の暮らしの中で示す振る舞いや態度は、天才的な閃きによって生の本質に迫ろうとしたニーチェの思想に部分的に交差し、それに匹敵するような衝撃を私たちにもたらしてくれる。・・・

 私たちは、一生をかけて何かを実現したり、今日の働きで何かが達成されたりすることをひそかに心に描いて働いている。あるいは、現在の暮らしの水準を維持するために働くということがあるかもしれない。ところが、プナンは、これこれのことを成し遂げるために生きるとか、将来何かになりたいとか、世の中をよくするために生きるとか、生きることの中に意味を見出すことはない。・・・

 ・・・プナンは、向上心や反省心を持ち、人間としての完成に近づいていくという「直線的な時間」を生きている私たちとは異なる時間形式を生きていることになる。・・・

 ・・・

 わたしの昼が始まる。さあ、上がって来い、来い、おまえ、大いなる正午よ!

(『ツァラトゥストラ(下)』三五一頁)

 ニーチェは「大いなる正午」という比喩を用いて、価値観をめぐる根源的な問いに気づくことの大切さを説いている。それは、「真上からの強烈な光によって物事がすみずみまで照らされ影が極端に短くなり、影そのものが消えてしまった状態」のことである。「影が消える」とは、世界から価値観がすべてなくなってしまった状況である。「影が見える」から「明るい部分」と「暗い部分」が生じ、「これは善い」「あれは悪い」という善悪の価値判断が現れる。大いなる正午とは、真上から強烈な光に照らされて影の部分がない、善悪がない状態である。

 ・・・私にとって、ボルネオ島の森でプナンと一緒に暮らすことは、「大いなる正午」を垣間見る経験だった。それは、「すべての価値観、すべての意味付け、すべての常識が消え去り、何ひとつ『こうである』と言えるものがない世界」に触れることへの入り口だったのではあるまいか。・・・