世界をいろんな視点から眺められる言葉がちりばめられた本でした。
こちらは「死」をテーマにした地方でのトークイベントで語られた、帰国子女の知人の娘さんが父親の臨終に立ち会った際のエピソードと、希林さんが思う神様のお話です。
P51
で、「パパ!」「起きてよ!」ってみんなで必死に願うじゃない。心電図のモニターの波がツーツー、ツーーーって消えそうになると。でもって、そうすると何か聞こえるらしくて、ツーツーってまた波が戻るんですって。(中略)で、またツーーーってなると、「パパー!」「生きてぇ!」ってなる。ところが、「パパー!」って何回も繰り返しているうちに、だんだんみんなくたびれてきちゃったのね。で、何度目かにまたツーーーってなったときに、娘さんが「パパ!生きるのか、死ぬのか。どっちかにして!」って。
爆笑だったわね。死をテーマにした会場中が。でもわかるわよね、この気持ち?さらにこの話は続きがあって、そのあと火葬場で待つじゃない。お骨になるまで。部屋で待っていると、1時間くらいして係の人が報告にきた。そうしたらその娘さん、「みなさーん、いまパパが焼き上がりました」って。
面白いわよねぇ、世の中って。「老後がどう」「死はどう」って、頭の中でこねくりまわす世界よりもはるかに大きくて。予想外の連続よね。楽しむのではなくて、面白がることよ。楽しむというのは客観的でしょう。中に入って面白がるの。面白がらなきゃ、やってけないもの、この世の中。
P55
わたしの場合は仏教徒だから、無神論者じゃないんだけど、だからって釈迦や日蓮や親鸞や空海や道元や……を拝んだことはないのね。迫力ある生を生きて、しっかりと死んだ、神の心にまで至ったステキな人間だという感動はあるし、計りしれない敬意は持ってても……。私にとっての神は、光みたいなもんだと思うのね。「神様のバチが当たる」っておどかされて、よくおどろいたんだけど、神様ってのは、そんなセコいもんじゃないと思うのね。拝むと功徳があって、拝まないとバチをあてるなんて裏口入学みたいなかけ引きするわけないもの。光は、生をうけたもの全部にあたるんで、ただ、うけとるこっち側が、スモッグがかかってるか晴れてるかによってその光は、くすぶったり、輝いたりするんだと思うのね。いずれ科学も進歩して、心を反射する光を究めることができるかもしれないけど、それまでは、自分の判断を超えるものに対して、拒否したり溺れたりしないでもう少し自然でいたいなあと思うのね。
だって、それほどわたしは強くも弱くも偉くも駄目でもないんだもの。