理由の説明

文庫 機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる (草思社文庫)

 やっぱり脳って不思議です・・・

 

P78

「自分たちはどこにいるのか?」

 こうした質問を、いわゆる「分離脳」患者が口にすることほど衝撃的で不気味なことはない。・・・ある分離脳患者「ジョー」は、「ご存じの通り、これら左半球と右半球はいまや互いに独立して働いている。しかし、あなたがそれに気づくことはない(中略)感覚は以前となにも変わらない」と話す。

 この「あなた」―この場合、修辞法としては「わたし」の代用である―という言葉が、もはやジョーの脳全体を指しているのではないことを考慮する必要がある。この代名詞が指す領域は狭まり、言語をつかさどる左半球のみを指しているのだ。言ってみれば、その半分の脳のみが話しているのである。

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 左半球は常に経験に基づいて因果関係を推測し、常に事象の意味を理解しようとしているようだ。・・・分離脳患者の例からわかるように、この解釈者はためらうことなく間違った原因や間違った理由を作り出して口にする。実際のところ、これを「嘘」と言っては言いすぎになる―むしろ「自信を持って最善の推量をしている」のだ。この例からもわかるように、右半球でなにが起こっているのか知ることができなければ、その推量は単なる憶測になりかねない。だが非常に興味深いことに、健常な脳であっても常に正しく推測できるとは限らないのだ。

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 赤ん坊が泣いているとき、親にその理由―お腹が空いた?のどが渇いた?おむつが汚れた?疲れて眠りたい?―の見当がつかないのは、実に悲劇的だと僕は思う。赤ん坊が喋れさえすれば!だが実際には喋れないから、親は一通り試さなければならない―ほら、食べ物だよ。駄目だ、泣きやまない。ほら、新しいおむつだよ。駄目だ、泣きやまない。眠いのかな。ほら、毛布だよ。駄目だ、泣きやまない……。だが、こうしたことは自分と自分自身のあいだでも起こっているように思う。自分で気が立っていると感じたら、「仕事は問題ない?友人との関係は?恋人との関係は?きょうどれだけ水を飲んだ?きょうどれだけコーヒーを飲んだ?十分に食事している?どれだけ体を動かした?どれだけ睡眠をとった?天気はどうだ?」と考えてみる。ときには、考えても理由がわからないこともある。フルーツを少し食べて、近所を軽くジョギングして、昼寝をして、そんな感じであれこれやって気分が落ち着けば「ああ、そのせいだったのか」と思うのだ。赤ん坊とたいして変わりはしない。

 僕は大学院時代に、些細なことではないが特に重要でもない人生の決断をしたあとで、なんとなく「調子が悪い」と感じるようになった。調子が悪くなればなるほど、その決断について考え直すようになり、考え直せば直すほど―キャンパスに向かうバスに乗っていたときのことだが―吐き気がして体中の汗が噴き出し、体が熱くなったり寒気がしたりするようになった。僕は「なんてことだ。本当は思っていたよりもはるかに重大な決断だったのだ」と思った。だが違っていた。実際は、その月に学部内で流行していたウイルス性胃腸炎にかかっていただけだったのだ。

 このような例―「誤帰属〔心理学の用語で、自分の判断を正当化するために、誤った結論で自分を納得させようとすること〕」というーの興味深い調査はいくらでもある。

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 自分の行動に対して十分に納得できる理由を考えついた人のほうが、自分の行動に途方に暮れる人よりも、窮地を脱する可能性は高くなる。だが、奇妙な行動や好ましくない行動に対して理にかなった説明ができたとしても、おまけにその人物が正直者だとしても、その説明が正しいとは限らない。つまり、原因と結果のあいだの溝をもっともらしい理屈で埋める能力があっても、人は少しも理性的にも、賢明にも、道徳的にもならないのだ。僕らはいつもそのように考えてしまうが。

 ガザニガは「ジョーのような患者はたくさんいるが、彼らは心が独立した要素や半独立の要素の集まりでできていることを教えてくれる。それに、われわれの意識的認識の外側でこれらの要素、これらのプロセスがさまざまな活動をおこなっていることも」と言う。

「われわれの意識的認識」―「われわれ」だって!ここでのこの言葉は、ジョーの言う「わたし」という単数形の代名詞が、常に彼の左半球しか指していないであろうことを言外に意味しているのだ(ガザニガも、この点についてあとからはっきりと肯定した)。だからこそ、ガザニガはここで「われわれ」という言葉を使ったのである。