「ま」というものの見方

身体は「わたし」を映す間鏡である

 コトバを頭が理解すると、それが注意の向け方に反映し、身体の動きも変わる・・・つくづく面白いな~と思いました。

 かなり長い引用になってしまいましたが(;^ω^)書きとめておきます。

 

P182

 締めくくりのテーマは、「ま」です。

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 なぜ「ま」なのか?「ま」とは何か?・・・

 まずは「ま」を身体で感ずるところから始めてみたいと思います。

 私が講座でよく使う小道具がいくつかあります。先に紹介した30センチほどの丸棒もそうですが、お盆もその一つ。・・・このお盆を差し向かいになった二人が手に持ち、押し引きする。ただそれだけの単純な動きですが、注意の向け方がピンポイントで〝はまる〟と、力感のない何気ない動きなのに、お盆を持つ相手の身体がこらえきれずぐらりとなってしまう……そんな自分でも驚くような力を生み出す瞬間を体験できるのも、この「お盆を動かす」ことのおもしろさです。・・・

 場面設定はいまお話しした通り、「一つのお盆を差し向かいになった二人が手に持ち立っている」。試みる動きは、お盆を一方が出す、もう一方が自分に向かってくるお盆を(押されてしまわない程度に)受け止める。それだけです。

 ポイントは、お盆を出す人に与えられる指示にあります。次の三通りの指示に従ってお盆を出してもらったとき、心地よくお盆が出せる指示と、どんなにがんばってもむずかしい指示が実はあるのですが、予想はつくでしょうか。三通りの指示を書き出してみます。

A 自分が持っているお盆を出す

B 相手が持っているお盆を出す

C 相手と持っているお盆を出す

 ・・・

 ・・・何度かこの三通りの指示に従って繰り返しているうちに、注意の向け方が〝はまる〟人が出てきます。そうなると会場はがぜん盛り上がってくる―というわけですが、どうでしょう?

 ・・・先へ話を進めると、〝はまる〟人が出てくるのは実はCだけです。このときのお盆を出す動きの軽さをどう表現するかは、人によっていろいろだと思いますが、とうてい動かせないだろうと思っていたものがすっと動いたときの体感には、硬い木材に金槌の一振りで釘を通せたときのような新鮮な驚きが感じられるものです。

 ところが、一方のAとBの指示ではなぜかCのような爽快な動きは引き出せないのです。

 ・・・これこそ論より証拠、一度みなさんも試していただければ納得されると思います。

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 なぜこのような違いが生まれるのか?

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「自分が持っているお盆」、「相手が持っているお盆」、「相手と持っているお盆」―どれも事実のある一面を物語っています。ただ、・・・ある物事を表現するコトバ(文章も含みます)が変わると同時に、自分の中の認識や物との関係性も実は変わってくるのです。ここが「コトバ」と「身体」の関係のとても興味深いところです。

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 まず、AとBに共通している「〇〇が持っている」という表現。・・・身体はコトバに忠実ですから「自分(あるいは相手)の延長にあるお盆を動かすということなんだな」という理解をします。その理解は、具体的には注意の向け方に反映され、注意はまず「自分(あるいは相手)」に向けられます。

 対するCの「相手と持っているお盆」。・・・一文字変わっただけですが、意味合いはがらりと変わってきます。・・・

 つまり、そのお盆は相手と自分が共通して持っている物であり、相手のものとも自分のものともいえない中立的なもの。

 ということは、注意は自分や相手の一方に偏ることなく、その両方の共通項であるお盆そのものに向かうことになる、と考えることができます。

 ・・・ここまで何度か触れてきた「注意の濃淡」・・・Cのニュートラルな注意の向け方がいちばん安定する―という「注意の濃淡による視点」をまず確認したうえで、・・・「ま」という観点から、この「お盆の押し引き問題」を読み解いてみたら、どんな物語が現れるか?・・・

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「ま」はそこにあたりまえにある、わけではなく、「二つ以上のものを何かの視点で関係づけてとらえたときに、はじめて現れてくるもの」。そう考えると、「ま」というコトバがどんなものの見方を前提にしているのか、その特徴が見えてくるような気がします。

 もう一つ、「ま」のおもしろいところは、その「ま」をつくりだしている物事のどれにも関係していながらどれでもない曖昧なものである、ということです。

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 と、ここで、場面は戻って先ほどの「お盆」の場面へ。

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 ・・・「自分」か「相手」か、その間にある共通のもの(お盆や棒)か。注意を置く場所がこのように三つあるとき、たいていは「自分」か「相手」に注意が向かうものですが、そうせずに、間にある「共通のものに注意を置く」と、動きの質がいい意味で変わってくるのです。

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「身体というのは<わたし>の向ける注意の変化に一瞬一瞬素直に対応して、変わっていくものなのだ」ということが、コトバと身体の関係をこうして追っていくとよくわかって感心させられます。

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 ・・・これは、緊張した状態にある人や、自分なりの熟練したやり方を持っている人にありがちなことなのですが、・・・「ふーっ」と気持ちや呼吸などを整えてから棒を出そうとすることがあります。・・・やってみるとこのやり方は残念ながらうまくいきません。

 なぜかというと、気持ちを整える、あるいは息を整えるというのは、「自分」を整えようとすることと同じだからです。つまり、棒に置いたはずの注意を、結局、自分に戻してしまっているのです。

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 相手も自分も安定はしない―。

 対して。

「ま」のいいところは、「変わらない」ということです。

 ・・・その変わらないものに注意を向け続けている限り、注意は相手にも自分にも寄らないのです。

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「ま」というものの見方のおもしろさ。みなさんの中でも、なんとなく、ふくらんできたでしょうか。