未完の温かさ

病気も人生: 不調なときのわたしの対処法

 印象に残ったところです。

 

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 しかし私自身はいつも死を考えている。体が痛いのとだるいのとで、あまり生きていたくないと思う時もあるからだ。しかしおかしなことに或る日は、今ここで死んでしまうのはモッタイナイと思う時もある。自分を過大評価しているつもりはないが、今私は人生で一番家事がうまくなっているからだ。一度に素早くすべきことと、手順が考えられる。素人料理人としても、普通の家庭なら充分に仕える。どんな食材も残さず使い道を考えられ、まずくもない。こんな便利な人間が、ここで死んでしまっては少し勿体ない、と思い始めたのだ。こういう形の執念だか、自己過大評価だかが、すなわち「生き欲」ということなのか。しょっていることには、違いない。

 

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 私は町を歩く人の姿を見ながら、今の自分がいささかの荷物を持って十キロ歩くことも、小走りに走ることも、ジャンプすることも、階段を駆け降りることも、何もできなくなっていることを思った。私より年を取った人でもできる人が多いのに、私にはそんな単純なことができないのであった。

 しかし私はその劣等性を、その時この上なく満たされた幸福なものに思えたのだ。それが私というものなのだ。はっきりした自覚を贈られたことは、私の晩年の姿勢を限りなく自然体にしてくれるだろう。私は他にも自分にはできなかったたくさんのことをしっかりと自覚して、その意識に包まれ、その不思議な「未完」の温かさゆえに幸福に死ぬことができるかもしれないという幻想を、その瞬間いただけたのである。

 

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 考えてみれば、人生はすべて過程である。これで完成ということもなければ、これで失敗ということもない。たとえばすべての小説は、ほんとうは毎日毎日手直しを続けなければならないもので、そうなると一生かかっても本にできない。だから私たちは作品を未完成品のまま世に出すことを諦め納得し、現状を柔らかに受け止めて謙虚になる他はないのである。

 年齢も同じである。

 若い方がいい、と人は誰でもが言うし、それはもちろん単純な真実だ。若い人は美しく強く活力に満ちている。しかし複雑な真実はそうでもない。私たちは、私たちが立っている現在の地点と時点を愛し、それをいとおしみ、それを貴重に思って生きる他はないのである。