ユニークな問答

般若心経のこころ―とらわれない生き方を求めて

 印象に残ったところです。

 

P113

 大乗経典の中で一番般若経的なものの考え方を受けついでいるのは、維摩経かもしれない。・・・

 たとえば維摩経般若経の「諸法非相」の考えかたの影響を強く受けていたことは次のエピソードでわかる。

 維摩経の第七章「観衆生品」に出てくる文殊維摩の問答はたいへんユニークなものだが、そのおしまいのところにこんな問答がある。

文・「善と不善とはなにを本としているか」

維・「身を本としている」

「身はなにを本としているか」

「欲貪を本としている」

「欲貪はなにを本としているか」

「虚妄分別(ありもしないことをあると思うこと)を本としている」

「虚妄分別はなにを本としているか」

「顛倒の想(判断がひっくり返っていること)を本としている」

「顛倒の想はなにを本としているか」

「無住(すべてのものによりどころがないこと)を本としている」

「無住はなにを本としているか」

「無住には本というものはない。文殊よ、無住の本から一切の存在が成り立っているのだ」

 人間には体というものがあるから、善いことをしたり、悪いことをしたりする。その体は欲貪(本能)というものから起こった。その本能は、ありもしないものをあると思うから欲望が盛んになったのだ。その、ありもしないものをあると思いこむのは、人間の判断がいつでもひっくり返っているからだ、逆さまになっているからだ。その判断がひっくり返るというのは、この人生そのものが無住だからだ、どこにもよりどころがないからだ。

 この時文殊はつい調子にのりすぎて、「その無住というのはなにが本でそうなるのか」と訊いてしまった。つい訊いてしまったのだ。それを維摩にピシッとやられる。「無住に本なんぞあろうか。無住ということが大本だ。無住という大本からこの世の中は成り立っているのじゃないか、阿呆なことを訊くな」というわけである。

 このすばらしい問答を方丈の一角で姿をかくして聴いていた天女が思わず姿を現し、天花を降らせた。その花は菩薩たちの体には着かないが、大弟子の体には着いて落ちない。舎利弗がそれを夢中になって払い落とそうとしているのを見て天女が問答を仕掛ける。

舎利弗さん、どうして花を落とそうとなさるんです」

「この花は不如法(ふさわしくない)だからだ」

「あなたが不如法だなんて思うから花がくっつくんです。仏法者が分別したりするようなら、それこそ不如法というべきでしょう。不如法なのは花じゃなくてあなたの方でしょう」