お家賃ですけど

お家賃ですけど

 なんだか味のある本があるな、と手に取りました。

 帯にある言葉のとおり、こんなに褒められて、この家もさぞ喜んだのではと・・・。

 

P10

 そもそも私がここ牛込に住んだのは偶然で、加寿子荘のようなステキな物件を見つけられたのも奇跡的なことでした。

 ・・・たまたま友だちに誘われて牛込の西五軒町にある「神楽坂ディプラッツ」という劇場にダンスを観に行ったのです。

 劇場につくと、そのとなりにはいかにも風呂のなさそうな年季の入ったアパートが建っていた。あれ、こんな山手線のど真ん中に位置するにぎやかなところにも風呂ナシはあるんですね。・・・

 数日後、劇場の近くにあるいかにも地元密着型の不動産屋の窓に、<築四十年、家賃四万円、風呂ナシ、個別トイレ有、和室六帖にキッチン三帖弱>という、理想的な物件を見つけた。・・・

 共同玄関の扉を入って靴を脱ぐ。古さと、それを十分に補うほどに完璧に掃除の行き届いた共有階段に驚きつつも、鍵が開けっぱなしにしてある[2-2]の部屋に入りました。

 真鍮のノブを回して中に入ると二帖ほどのスペースがあり、そこはキッチンになっている。入口の右にはすぐトイレの扉。真っ正面にもガラスの嵌まった木の扉。左側には六帖の和室につながる引き戸。

 キッチンの床はやや時代がかったクッションフロアですが、広さは十分で使い勝手がよさそうです。二口のガスコンロも置けるし、湯沸かし器もある。収納も十分。少しびっくりしたのは換気扇で、木のサッシのガラス窓のところに、後から据えつけてある。いちいちガラス窓を開けないと換気扇を回せない仕組みです。まあこのくらいの不便は、この風情の前では問題になりません。

 ・・・

 さて問題は、さっき入口を開けたときに真っ正面に見えた扉です。

 部屋の様子をもう一度描写します。「扉を開けて中に入ると二帖ほどのスペースがあり、そこはキッチンになっている。入口の右にはすぐトイレの扉。真っ正面にもガラスの嵌まった木の扉。左側には六帖の和室につながる引き戸」。

 この部屋は、キッチンとトイレと和室で構成されています。「ガラスの嵌まった木の扉」はその要素に含まれていない。いったい何なのか。どこに通じているのか。

 こうして謎めかして書くと、実際その場にいる私には扉がどこに通じているかが目に見えていて、そのうえでこうしたレトリックを使っているのだ、と思われそうですが、そうではなかったのです。部屋の下見に行ったまさにそのとき、どこに通じるのか分からない謎の扉が目の前にあったのです。

 扉のすりガラスの向こう側は、構造から考えるに、どう見ても外です。しかしここは二階だ。

 非常口?この部屋にだけ唐突に?いや、もしかしてほかの部屋にも均等にあるものなのか。

 おそるおそるその扉を押し開ける。鍵もかかっておらず、あっさり開いた。

 ……扉の向こうは、本当に外でした。

 そのまま一歩踏み出していたら、私は今この文章を書いていないかもしれない。

 開けた扉の一歩先には床がなかった。数メートル下に地面があった。思わず扉を閉める。

 危ない。

 もちろんうっかり下に落ちることも危ないけれど、この扉には鍵が一切ないから、はしごでも使えば簡単に外から侵入できる。二重に危ない。

 この部屋は適度に古くて(私は古いものが大好きなのです)、十分にきれい。お風呂がないし洗濯機も置けないけど、銭湯もコインランドリーもすぐそばにある。四万円という家賃も、風呂ナシとはいえ牛込のこの場所にしてはかなり安い。そして、この全く存在意義がないどころか非常に危険な意味不明の扉。おもしろい!

 もう十分に気持ちは固まりました。大満足です。わたしはその足で不動産屋に戻り、すぐに契約を交わしました。

 ・・・

 夜にはたまに天井から、ストトトト、という音が聞こえます。たぶんねずみです。

 名前も出したくない、例のゴで始まる虫との遭遇もよくあること。窓や扉にすきまが多いので、虫も入れば風も吹きこむ。

 ねずみやゴの字との出会いは快いものではなかったけれど、鳥や猫とのおつきあいもありました。

 北側の窓を半分覆っている木には黒い実がなります。私はその木の名を知らないけれど、実を目当てにときどき鳥がやってくるので、木には一方的に親しみを持っていました。すりガラスの窓のすぐ外、驚くほど近くで鳥の声を聞くこともできます。

 一階のせりだしたトタンの屋根には、ときどき猫がやってきます。野良なのか、近所の飼い猫なのか。夜中に赤ちゃんみたいな声で鳴きあって、ドタバタとケンカを始めます。

 都内、山手線の輪の真ん中で、こんなに生き物と共棲している気分になれる加寿子荘。細路地に面しているから車の騒音は聞こえないけれど、駅に近いから適度に人々の息づかいを感じられる加寿子荘。北向きの窓から入るやわらかい光を浴びながら畳に寝ころがるのは無上の幸せ。