四季のように

死という最後の未来

 この辺りを読みながら、流れの中にあるのだな・・・ただ流れていけばいいのだなと思いました。

 

P179

石原 三浦さんが亡くなられてのち、どのような気持ちで生活してこられたのですか。つまり、夫という存在がいなくなってから。

 

曽野 よく「大変ですね」とか「お寂しくなりますね」とか言われたりしたのですが、私は少しも大変ではなかったです。私にとっては彼の魂の存在だけが必要なことでしたから。

 私は、かなり早い時期に、彼の物を片づけ始めたんですよ。2階に彼の書斎だった部屋があって、そこは息子が大学生だった頃に使っていた部屋だったんですけど、本だけは全部残して、それ以外の洋服や靴などは出してしまいました。なので、ガラガラになっています。もともと空間があるほうが好きで、片づける、捨てることが好きだという性格もあるんですけれど。昔から物事は溜めておくよりも、流していくほうがよいという考えです。

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 人の暮らしって、入れる、出す、ということで成り立っていると思うんです。それは、お金も品物も愛情も同じです。自分が要るものは受け取るけど、要らないものは人に分けたほうが役に立つ。このバランスがとれていないと、運が悪いほうに転がったり、後々に精神的に病んだりすることが起こるような気がするんです。

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 ・・・カトリックですから、世の中のことすべては、かりそめという考え方がベースにあって。

 

P228

石原 老いを受け止めながら、さらに新しい生き甲斐を見出していく。情熱をもって天寿を全うすることが、あとからやってくる者たちへの責任でもあろうと、この頃は思うようになりました。

 

曽野 本当にそうですね。四季のように、仕組みがそうなっているのだと思います。春が来て木が芽吹いて、秋に枯葉になって……でも、それについて木はやかましく言わずに黙っています。私は畑仕事をするようになって、余計にそれを感じるようになりました。種をまけば小さな芽が出て、茎が育って実がなって。その種をまたまけば芽が出て、という。たいした仕組みだと思いますよ。・・・

 人もこの「大地の一粒」であって、木の葉が落ちるのは死ということではなくて、生の変化に備えるため。それを繰り返して老いた時に、自分の死を他者の生のために譲ることが大事だと私は思っているんです。