インタビューを仕事にしている方の、このような内容の本は、初めて読んだように思います。
興味深かったです。
P27
人は、言っていることの意味ではなく、言わんとすることを理解されたいと願う。言わんとする行為そのものが、その人の存在に関わることなのだ。話されている言葉に注目するだけではわからない。うずうずとした思いだったり、胸の高まりだったり、塞ぎ込む気持ちといった、身体の浮かべる表情に応じるとき、相手は安堵した顔つきをする。そこで私は初めて知った。わかるとは、感じて応じることであって、意味を求め、正解を探すことではないのだと。
私は他者を理解してはいない。だが他者性を理解するようになった。私はあなたのことはわからないが、私の中にある「あなた」はわかる。・・・私の中にある「あなた」の微細な運動を感じる時、わかるという体験が訪れる。それは意味を知ることではない。他者との間につかの間、決して確定されることのない理解という名の橋をかけようとする試みなのだ。
数年前、老舗の洋画商のオーナーに絵画の真贋の見分け方について尋ねたことがある。・・・
・・・
―真贋を見分ける上での勘所はどこでしょう?
「よくできた偽物は本物よりもいい線を描くことがあるんです。作家もずっと調子いいわけではないですからね。とかくうまさで定評のある作家でもずれた線を描くことはありますよ。でも、トータルで見れば『これはずれているけれど本物』『これはうまいけれど偽物』とわかります。科学的な鑑定には限界がありますし、裁判で争っても裁判官は判断できない。最終的には感覚的な判断で真贋はわかります。そう言えるのは作家の身近にいて、デッサンや筆勢を熟知しているからこそです」
贋作はどのようにして作られているか、といった裏話もふんだんに聞くことができ、大変ためになった。だが、心に強く残ったのは美術界の実相ではなく、「よくできた偽物は本物よりもいい線を描く」という言葉だった。
物事を本当に正しく理解するとはどういうことなのか?を考えるとき、私はこの言葉を決まって思い出す。・・・
P65
・・・人は「いま・ここ」に迫ろうとする。その試みが真の美を束の間、描き出すことがあるとすれば、それをなし得るのは人間業ではないだろう。業を背負ったものしか果たせないのではないか。そう思い至ったとき、ある木彫り職人を思い出した。
その人は「見たものを見たままになんでも彫れてしまう」技をもっていた。尋常ならざるところは、それは彼が追求するもののほんの入り口に過ぎないということだ。彼の課題は「きれいを越えること」にあったからだ。
「・・・きれいを超えなければ、生きている美は彫れません。だから木で竹を彫ることにしました。たとえば竹は尾形光琳の絵にたくさん出てきます。光琳は生きている状態を描いたから〝竹は生きている〟と思っています。しかし、萎れてないからといって生きているというのはおかしな話です」
・・・
死んだ木材を使って「生きている竹」が彫れたと得心した時、彼はさらに次の段階を目指した。そのひとつが「真っ直ぐ」を彫ることだった。
「テーブルや障子の桟の直線は作られた真っ直ぐです。木は放っておくと曲がります。それを捻じ曲げるから真っ直ぐになる。そうではなく、私は真っ直ぐを作りたかったのです。そこで真っ直ぐな茶杓を彫ることにしました」
利休の高弟、蒲生氏郷の手になる茶杓ですら、「真っ直ぐにしている」としか思えなかった。それは自分の求める、「ひたすら真っ直ぐ」ではなかった。
台風一過のある日、庭に出ると欅の枝が落ちていた。枝を見たら、その中に「真っ直ぐの線が突き抜けていた」。それを茶杓にしようと思いたった。茶杓には適度な長さや掬う働きが必要となる。そこに技が、人為が、加わる。作為と自然の美は成り立つのか?という難問を越えるのが、「作る」という行為の骨頂だ。
・・・
「ものが存在するというのは貴重なことです。色や距離、位置があるのもすばらしい。人間はそれらを何ひとつ作り出せません。そんな貴重品が充満しているところに生きているのだから、あだや疎かにものを使ってはいけない。『さあどうだ』とか『我ここにあり』といった気持ちでものを作ってはいけない」
だから「誠実に生きなくてはならない」という。それは社会を生きる上で評価される徳目とは無縁だ。
「『誠実』を良い言葉として取られると困ります。そうではない。修羅場です。誠実に生きれば経済的にも不利になりますから、この世で生きる上では損するだけでちっともよくない。しかし、たったひとつ他に変え難い、良いことがあります。それはものの本体が見えてくることです。これは要領よく生きていたのでは、絶対に見えてこない」
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彼の彫った真っ直ぐな茶杓は見た目は曲がっていた。だが手に取ると真っ直ぐで端がなく、向こうもこちらも突き抜けていた。そうとしか感じられなかった。真っ直ぐという形に止まることのない運動が一本の茶杓にはあった。
「私には、これは真っ直ぐでした。目に見えない真っ直ぐです。果てがない。突き抜けている。手に持つと真っ直ぐなんです。曲がっていることは皮膚感覚ではわかりますが、そう感じている中に真っ直ぐを感じるのです」
彼は渾身の作をある目利きに贈った。相手は茶杓を手にとるや、静かに「真っ直ぐだ」と言った。
彼は「そうではない何か」で〝それ〟をつくったのだ。形によって形にならざる生命の運動を浮き彫りにした。
・・・
刻々と変化する生命は「いま・ここ」にあり続けている。「いま・ここ」について語られた言葉は過去についてであり、「いま・ここ」は言葉では決して言えない。固定化と変化、過去と「いま・ここ」の汀に私は存在し、そのせめぎあいの中で生まれる言葉を探している。