横尾忠則さんらしい、びっくりエピソードが載ってました。
P270 流しから出てきた二人目のぼく
ある朝、眼が覚めて、ベッドの中で足元の本棚を眺めていた。すると台所でお手伝いさんがきゅうりかおしんこをまな板の上で切る「トントントントン」という音が聞こえてきた。その音を聞きながらぼくはふと、彼女は指を切るのではないかという妄想にかられ始めた。一刻も早くベッドから降りて彼女に「危ない!」と注意を促さなければならない。
ところが、どうしたことかぼくの身体は金縛り状態になってビクとも動かない。音はさらに大きく「トントントントン」とまるで耳元でしているかのようだ。だが身体の自由は完全に奪われている。
と、その時、台所から「キャッ!」というお手伝いさんの声がした。「あっ、ついに切ったか」と思った瞬間金縛りは解け、ぼくは急いで寝室の外へ出た。するとお手伝いさんも台所から飛び出してきて、ぼくの顔を見るなり恐ろしいものでも見たかのように再び「キャッ!」と叫んだ。
彼女の話はこうだ。
きゅうりを包丁で切っていると次第に吸い込まれるように眠くなってきた。手は動いたままだ。と、その時彼女の眼前にぼくが突然現れた。そんなぼくを見た彼女は驚いて「キャッ!」と声を上げた。台所の流しを突き抜けてぼくの上半身がそこにあったというのだ。彼女はあまりの恐怖に台所から飛び出した。するとそこには寝室から出てきたばかりの二人目のぼくがいた。そしてそこでまた「キャッ!」と叫んだ。
ぼくが金縛り状態になっている時間、お手伝いさんは突然の睡魔に襲われていた。だけどその瞬間ぼくが彼女の目の前に現れたために危うく指を切らないですんだのである。