希望という名のアナログ日記

希望という名のアナログ日記 (小学館文庫 か 29-6)

 こちらも角田光代さんのエッセイ、面白かったです。

 印象に残ったお話を書きとめておきます。

 

P159

 バリのウブドも大きな町ではないが、さらに車で一時間走ると、あたりには民家も商店も数えるほどしかない山奥になる。時間の流れが一気にゆるまり、空気の密度も濃くなる。ヒンドゥー教徒の多いバリでは、みな信心深いと有名だが、都心を離れるとさらに神さまが身近になる。古代遺跡や世界遺産登録されている寺院を訪れるために、「星のやバリ」の現地スタッフが、神さまへのお供えものであるチャナンの作り方を教えてくれ、お詣りのための正装を手伝ってくれるのだが、ちょっとした言葉の端々に、彼ら、彼女たちが神さまのすぐそばで暮らしていることがわかる。

 信仰心が篤いけれど排他的ではないので、どの寺院にも観光客が入ってお詣りすることができる。いくつかの寺院では沐浴もできる。・・・

 もっとも印象に残ったのはスバトゥの滝での沐浴だ。ガイドさんの指導のもと、谷底の滝に打たれて祈るのだが、すさまじい勢いの水を浴びていたら、たとえばいつも祈るような家族の健康とか幸福などはまったく思い浮かばなくて、世界が平和でだれもがふつうに暮らしていけますように、という願いしか、思い浮かばない。そして滝から上がって山道を登っていくときに、遠くの山々や空や雲や木々が、異様にきらきら輝いて見えて、自分でも少々たじろいだ。

「星のやバリ」では朝と夜の無料ヨガレッスン、それから希望者にはプライベートレッスンを行っている。それに参加したのだが、周囲に山と生い茂る木々しかなく、聞こえるのは鳥と虫の声ばかり、という環境で、教えられるまま四拍息を吸い、八拍で吐き、体のあちこちをのばしていると、自分が、木や草や雲や石ころや鳥や虫なんかの一部であるような気になる。自分のために体の調子を整えているのではなくて、その一部として、全体に調和するために体を動かしているような気持ちになるのだ。それで、あ、と思った。滝で思ったことは、偽善でもなんでもなくて、「うつくしい世界がうつくしく調和したままであるように」という、私個人ではなく、全体の一部としての思いだったのではないか。心身ともに浄化する、ということは、自分がこの世界を形成するすべてのものの一部でしかないと、気づかされることではないか。

 日が傾きはじめると、ジャングルの木々はいっせいに金粉をかぶったような色になる。ゆっくりした時間の流れが、さらに、とろりとしたものに変わる。私、休息がほしかったんだなあ、としみじみ思う。長時間眠ったり、好きなだけ飲んだりするのが休息だと思っていたけれど、こんなふうに、私、という個を離れて、ただそこに広がる大きな自然の一部になる―そんなふうに思える時間を持つことこそ、とくべつな休息なのかもしれない。

 帰る日に、頭上から聞こえるトッケイの声を数えながら、たった数日の滞在で、幸福というものの概念が、自分の内でずいぶん変わっていることに気づいた。