いきたくないのに出かけていく

いきたくないのに出かけていく (角川文庫)

 角田光代さんのエッセイ、楽しく読みました。

 

P202

 こんなに旅好きで、旅する回数が多いのに、私は旅下手で旅慣れていない。四十数ヵ国という数字と、私の旅の仕方は、他人が見たらものすごくギャップがあるだろうと思う。自分でもよくわかる。私の旅はスマートではないし、非効率的で無駄が多く、みっともないことも多い。あの美術館を訪れたい、あの建築物をこの目で見てみたいというような、文化的、教養的な目的もない。人からしたら、いったい旅の何に取り憑かれているのか、不思議に思えるだろう。

 じつは私もずっと、旅の何に自分が魅力を感じているのか、ずっとわからなかった。旅に出たくて航空券を用意し、旅支度をするのに、出発前はいつもどんよりした気持ちになり、いきたくないと思う。・・・それなのに、旅に出たいという衝動は、その暗澹よりはるかにまさっている。それはなんなのか?なぜなのか?ずっとわからなかった。

 ようやくわかってきたのは数年前だ。

 ギリシャの島で、飲みものを買うためにちいさな雑貨屋さんに入った。カウンターにはおじいさんがひとり座っている。飲みものを買っておじいさんにお金を渡し、お釣りをもらいながら覚えたばかりのギリシャ語で「ありがとう」と言うと、「どういたしまして」と返ってくる。店を出るとき、おじいさんが「ありがとう」と言ったので、今聞いた「どういたしまして」と答える。ヨシ、とでも言うかのようにおじいさんは親指を立てて私にうなずいてみせた。

 こんなやりとりが、私は好きなのだ。人に話してもわかってもらえないかもしれない。名前も知らない、もう二度と会うことのないだろう人との、すれ違うような束の間、かすかに気持ちが通じ合うような、そんな瞬間がたまらなく好きなのだ。どうでもいいようなことで笑い合うのが好きなのである。

 町の写真を撮ろうとカメラを向けたら、通りがかった青年がカメラに気づいてふざけたポーズを取ってみせる。シャッターを押して笑い合う。

 食事をして、覚えたての言葉で「おいしい」と言う。「発音が違う」というようなことを店員に注意され、何度も「おいしい」と練習させられて、そのうち二人で噴き出してしまう。

 そんなこと。そんな、なんでもないこと。けれども、なんでもないことだから、短い旅でもかならず一度や二度はそういうことが起きる。

 旅の、どんなところが好きかは人によって異なる。未知のものを見、食べたことのないものを味わうことが大好きなのだという人もいるだろうし、その土地の文化や歴史に触れて「知る」ことに興奮する人もいるだろう。馬に乗ったりカヤックをしたり、という体験を好む人も、観劇や美術館巡りが目的の人もいる。私も、旅先に美術館があればいくし、旅先で日本料理はまず食べず、その土地のものを食べ、絶景にはひたすら言葉を失って見入る。つい数年前までは、そういうことがしたくて私は旅をしているのだと思いこんでいた。そうしたものが、暗澹たる気分の私を旅に引っ張り出すのだと思っていた。でも、違う。美術館も博物館も、未知の体験も未知の食事も、ぜんぶ二の次だ。その土地で暮らす、まったく縁もないだれかと、ほんのちょっと出会うこと。そう気づいて、私は自分のちいささに呆れてしまったのだけれど、同時に、自分の内にそうしたささやかで幸福な瞬間がたくさん詰まっていることも知った。

 旅好きのきっかけとなった、二十四歳のときのタイ旅行は、それはもういろんなことが起きたり、大勢の人と知り合いになったりした。・・・この旅のことを思い出して、真っ先に浮かぶのは、澄んだ海でもエメラルドの仏像でも屋台の群れでもなくて、名も知らぬ男の人だ。バス乗り場で、目的地にいくバスがあるかどうか訊くと、その人はともにバスを待ち、やってきたバスに私と一緒に乗りこみ、私の目的地でともに降りた。てっきりその人もそこに用があると思っていたが、そうではなくて、ただ私をそこまで送ってくれたのだった。そのことに気づいて、ありがとうございましたと頭を下げると、ただにっと笑って反対側のバスに乗って戻っていった。

 おそらくそのとき、これが旅だと刷りこまれたのだ。この広い広い世界に、道を案内するのに自分の時間を惜しげもなく平然と差し出す人がいる。そういう人とすれ違うように会い、笑い合うことができる。それが、つまり旅だと。