インナーチャイルドコースにつながるような

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
この部分は、読んでいて、インナーチャイルドコースhttp://www.aqu-aca.com/seminar/innerchild/の体験につながるような話だな〜と思いました。

P84
 これまで私は、世俗的な感覚に合わせ、「私」とは五蘊、あるいはその中の「識」だと申し上げてきました。
 これは受胎以後、さまざまな経験や認識などの残り香がすべて集まっていく処ですから、普通に考えればだんだん濁っていきますよね。
 ご承知のようにこの「識」をテーマの中心に据えて再構築された仏教が「唯識」と呼ばれる仏教です。
 そこではいわゆる意識のもっと奥に、無意識的な自己愛をもった「マナ(末那)識」、さらには「アーラヤ(阿頼耶)識」というもっと深い無意識も想定されました。
「アーラヤ識」は、五蘊で云えば全ての「表象」(想)の素になる種子が入っている場所という意味で「種子しゅうじ識」とも呼ばれます。つまりその種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に「表象」を導き、それがさらに「行(意志)」になり、またしても「識」に収められるということです。
 ちなみにマナ識というのは「意(マナス)という識」の意味です。マナスは古くから永遠不滅の魂というような意味でも使われましたが、仏教では六根の一つ。単に思いを抱く機能と考えられています。
 ともあれ、我々の心の最も深い深層である「アーラヤ識」が清らかであるのか汚れているのかというテーマは、仏教史上も大きな議論を呼んだ問題でした。
 ・・・アーラヤ識は結局どんどん汚れていくという立場からは、それは信じられないことでしょう。しかし実際に、私は含蔵識とも呼ばれるアーラヤ識の底に「光明」を見たのです。「私」には「自性」がない、という言い方とは矛盾して聞こえるかもしれませんが、私は深い無意識の底に清浄なる「自性清浄心」を感じ取ったのです。いや、自分もそうした清浄で輝かしい世界の一部であるという実感、といえばいいでしょうか。・・・そこでは、あらゆるものが同等に存在し、しかもすべてが宇宙と一体になっていました。

P87
 よく人間の根本にあるのは「無明」だ、というような言い方を聞くと思います。しかし「無明」の基本的な内容は「空性」に対する無知です。「般若波羅蜜多」を実践していないということなのです。
 ですから、「空」を体験した私とすれば、「無明」のさらに奥の「光明蔵」を見出した心境なのです。これは「無明」を突き抜けたところに現れる輝かしい運動の世界です。