ピダハン語

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン語はとても独特で、実体験に密着しているというか、説明しづらいのですが、「イビピーオ」という単語をめぐるその辺りのお話です。

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 イビピーオは、ぴったりと重なる英語の見つからない文化概念ないし価値観を含意していると思われる。もちろん「ジョンは消えた」とか「ビリーがたったいま現れた」という言い方をすることはできる。しかしこれはイビピーオと同じではない。第一に英語では「消えた」というときと「現れた」というときに別々の言葉を用いるのだから、両者は別々の概念だ。またここが肝心なのだが、われわれ英語圏の話し手は、現れたり去って行ったりする人物の方に焦点を当てていて、誰彼がわれわれの知覚の範囲に入ってきたとかそこから出ていったという事実に着目しているのではない。
 最終的にわたしは、この言葉が表す概念を経験識閾と名づけた。知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくはそこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ。・・・
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「アイピーパイとは?」
「アイピーパイは寝ているとき頭のなかにあるものだ」 
 わたしはやがて、アイピーパイが夢であることを理解したが、それはただの夢ではない。現実の体験に数えられるのだ。人は、自分の夢の目撃者である。ピダハンにとって、夢は作りごとではない。目を覚ましているときに見える世界があり、寝ているときに見える世界があるが、どちらも現実の体験なのだ。・・・
 夢は、直接体験されたことだけを語るというイビピーオの法則からはずれていない。・・・夢と覚醒のどちらも直接的な体験として扱うことで、ピダハンは、わたしたちにとってはどう見ても空想や宗教の領域でしかない信仰や精霊という存在を、直接体験として扱うことができるわけだ。・・・
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 一方これと並行して、わたしは直接体験の重要性を支持してくれそうなあれこれも思いだしていた。たとえば、ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。