何でもないものがあらゆるものである

何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて -(覚醒ブックス)

 こちらもノンデュアリティに関する本です。

 言葉にならないことを、どんな言葉にしたら近づけるかな?という関心から、何冊かまとめて読みました。

 

P71

 サンスクリット語のアドヴァイタという言葉は、語られることが不可能な何かを指摘しています。私たちはたくさん話をするわけですが、自分たちが話し合おうとしていることを決して描写できないのです。またそれは理解されることも知られることも不可能です。

 アドヴァイタという言葉はまた、ワンネスと呼ばれているものから分離している何かがあるという観念の虚しさを指摘しています。ですから、私たちはある状態に到達することについて話し合うつもりはありません。私たちは至福や静寂や沈黙、気づきの状態を発見するために、ここにいるわけではないのです。どれほどの自己探求も、すでにあるものへ探求者を連れて行くことはないからです。ですから、私たちはここで何かを探し求めるつもりはありません。なぜなら、発見するべきことも得るべきことも何もないからです。

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 それが語られたり、理解されたりできないのは、それがすでに何でもないもので、かつあらゆるものであるからです。・・・つまりそれはこの部屋で起こっている唯一のものなのです。この部屋で起こっていることは、ただそれだけです。そして、その内部に―私たちが求めるその中に―それを求めている私たちがいるのです。ですから、存在を求めることを、存在が求めているのです。私たちが自分はそれから分離していると信じていたり、それから分離していることを経験したりしている間は、私たちは常に必然的にそれを求めているのです。

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 私たちが話し合っていることは、あなたや私には何の関係もないことです。あなたや私とは絶対的に何の関係もありません。それは個人的経験とは何の関係もないのです。あなたはこれを得ることはありませんし、かつてこれを得た人は誰もいません。なぜなら、それは誰もいないことについてだからです。私がそれを得たわけではないのです。私はあなたが知らない何かを知っているわけではなく、あなたがもっていない何かや失われた何かをもっているということではないのです。

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 みなさんもご存じのように、私たちの心は、悟りとはどのようなものだろうかという考えをもっています。それは宝くじ、スピリチュアルな宝くじです。それはあなたが当たることのできる最大の宝くじです。それは百万ポンドの宝くじに当たるよりもいいのです。なぜなら、あなたはすべてをもっていて、あなたはただそこにいて、完全に安全で、至福を得て、あらゆることが素晴らしいからです。

 そして、そこに問題があります。なぜなら、もちろん実際には、悟りはそんなものでは全然ないからです。悟り、解放は完全に絶対的に普通です。それは素晴らしくありません。それは至福に満ちていません。それはあらゆることへの答えではありません。人生は続いていきます。人生は以前と同じようにただ続いていきます。しかし、解放があるときとの違いは、人生が起こっている誰かがいるといういかなる感覚も抜け落ちることです。解放は不在、解放は喪失―分離の喪失です。そしてその喪失の中で、空っぽさが満たされるのです。

 その空っぽさはまた充実です。何もない中で、つまり何もないとき、あらゆるものがその何でもないものを満たすのです。

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 これは絶対的に完全にまったくシンプルで、そして非常に困難です。それが非常にシンプルなのは、それが完全に明白であるからです。それが困難なのは、それが個人にとっては恐るべきことだからです。個人性を失うという感覚は、個人にとっては恐るべき観念なのです。