すべてお任せの姿勢を忘れないでいたいなと思います。
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甲野 わたしは俳優を対象とした講座もやっているんですが、演劇には脚本があります。すごく悲劇的なドラマだったとしても、登場する役者が「こんな展開は悲しすぎる」と勝手に筋を変えることはできません。脚本はすべて決まっている。だからこそ、役者はその決められた筋のなかで、自分に割り振られた自分のやるべき役をいかに演じきるか、それしかないんです。そして、それだからこそ感動がある。
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・・・「妙好人」と呼ばれる、何の学問もなくても信仰によってズバ抜けた境地を得た人の1人に「赤尾の道宗」と呼ばれた人がいました。「この人はすごい」という評判を聞いたある僧侶(天台宗の僧侶ともいわれていますが)が「化けの皮をはがしてやろう」と、田んぼの草取りをしていた道宗の尻を蹴とばして、転ばせた。すると、道宗はまるで自分で転んだかのように平然と立ち上がって、また草取りを始める。それをもう一度蹴とばすと、またわっと転ぶ。しかし同じように平然と草取りを再開した。さすがにその僧も呆れるというか、感心して「お前は見知らぬ者に理由もなく蹴転ばされて腹が立たないのか」と思わず尋ねたそうです。
前野 そう思いますよね。
甲野 すると「前世の借金払いだ。まだまだ残っているかもしれん」といったそうです。つまり、我が身に起こることはすべて「そういうシナリオなのだ」と引き受けている。
前野 ああ、起きることはすべて決まっている。だから、蹴転ばされても、そういうものだということになるんですね。
甲野 まあ宿業があって起こると確信しているからでしょう。そして何が起きても弥陀の本願に任せているから、すべて受け入れる。ここまで来ると、もう「覚悟が決まる」どころじゃない。まさに与えられたシナリオを生きている俳優そのものです。その瞬間瞬間に起きることは自分の人生のシナリオで、すべては阿弥陀如来の本願にお任せしてあるから受け入れるのみ、ということなのでしょう。
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甲野 前野先生とお話しさせていただいて、あらためてわたしが日頃思っているのはこのことだったな、と確認できたのは「人が人であるとは何か」ということです。そして人は何をしたいかといえば、わたしは、やはり「納得したい」のだと思うんです。
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金儲けをするにしても、マザー・テレサのような無私な人を目指すにしても、どちらにしても、自分の生き方に納得したいのは同じでしょう。善人悪人全部ひっくるめて、どんな人であっても、どう納得したいかではないでしょうか。
前野 なるほど。わたしは幸福学を研究するうえで「人は幸せになりたい」のだと思っています。たしかに、人は、自分の人生に納得することで幸せになれそうですね。納得できないのは、間違いなく不幸せです。幸せと相関の高い要素に、自己肯定感があります。・・・自己肯定感とは、自分について納得していることですね。長所も欠点もあるけど、これでいい、と思える状態。・・・
わたしの分析の結果、幸せな心の状態とは、「やってみよう」「ありがとう」「なんとかなる」「ありのままに(あなたらしく)」(=幸せの4つの因子)が満たされた状態なのですが、後ろの2つが「納得」に近いですね。どんなことがあってもなんとかなる。どんなときにもありのままに。
甲野 ロクにお金がなくても、自分の生き方を貫いていければ納得できる。それが幸せかどうかといえば、少なくとも不幸ではないですから、それを幸せというなら、幸せかもしれません。
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・・・さきほど南泉和尚と弟子の趙州との問答をご紹介しました。南泉和尚が「道について本当に理解するということは、道を求めようとするわけでもなく、求めなくてもいいとするわけでもなく、広々晴ればれとした境地になって、道を求めようとする気持ちそのものがなくなることだ」と説いたことで、趙州が悟ったわけですが、このことはわたしがずっと追求してきた「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」というテーマに置き換えていえば、「人間の運命が決まっていようが、決まってなかろうが、別にどっちでもいい。自分としては、ただやるだけ」ということになるのではないかと思うのです。
ですから、わたしとしては、その「ただやるだけ」ということを本当に納得して飲み込めるように、これからも稽古を続けていきたいと思います。