制限のない新しい文化

オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと

 印象に残ったところです。

 

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 中学3年生の時のこと。オードリーは母親に「閉じ籠もれる場所に行きたい」と告げる。聞けば、「自分の中には、日常生活をしている〝宗漢(オードリーの以前の名前)〟、詩を描いている時の〝天風〟、そしてパソコンの世界にいる〝Audery Tang(オードリー・タン)という3つの人格がいる。それらのまったく違う個性が身体の中で調和していない。だから静かな場所へ行って、しっかり整理したい」と答えた。

 そしてオードリーは中学の校長を訪ね、「今は不安定な状態だから」と2週間の長期休暇を願い出る。「足りなかったら1~2ヵ月くらい延ばしたい」と付け加えることも忘れなかった。校長は説明を聞くと、「この子は木のように速く成長するのだ。静かによく考えたいと言っているのだから行かせてあげよう」と考え、手を振りながら「日数が足りなかったらまた話そう」と見送ってくれた。

「半径50メートル以内に誰も人がいない場所」という希望条件を満たす場所として、自然豊かな烏來の小屋を借り、一人でそこに籠ったオードリーは、母親がまとめて置いていってくれた食糧を食べながら、数日間を過ごした。

 彼女は当時をこのように振り返る。

 

「私にとって、詩やプログラムを書くことは創作で、私を通してこの世界に生まれるものでした。それをする時の私と、人と楽しくおしゃべりする時の私はまったく違う状態で、当時は切り替えがうまくできていませんでした。それにまだインターネットができたばかりだったので、インターネット上と実際に対面した時ではコミュニケーションの方法が違っていたのです。当時のネット文化は、海外の国の文化をベースにしたインターネット独自のものでした。ですからその文化の中の表現方法で自分の周囲に接すると、皆からはおかしく思われる。その逆も然りといった状況でした。この時は、『微軟陰謀』(日本語では「マイクロソフトの陰謀」という意味。・・・)という一冊の本(著者補足:オードリー自身が起業後、出版に携わった)を持って行き、何度も読んで過ごしました。その本には、二人の作者がネット文化と現実世界での生活とを結合させる試みについて書かれていました。彼らは自分たちがそれに成功した体験を綴っていたのです」

 

 こうして、彼は本を読みながら人格の統合に成功する。

「通常であれば、そういったことはカウンセラーなどの精神医学の専門家の助けを得ながら行われることが多いのに、あなたは一人で実施したのですね」と私が言うと、「そうですね、だから本も一種の専門家だと言っていいでしょう」と答えた。

 母親は、家に帰ってきた後の彼は「耳識(聴く心)が全開」になっただけでなく、柔らかく、まるで女性のように、人が変わったように感じたと書いている。

 この時に人格を統合したことと、トランスジェンダーになったことには何か関係があるのかという問いへの、オードリーの答えはこうだった。

 

「日常生活において、社会は私たちに性別による違いを期待するかもしれません。しかし、インターネットの世界におけるコミュニケーションや、プログラムを書くような創作において、性別とは何の意味も持たないだけではなく、事実上自分に制限をかけることにもなり得るのです。ただ、この時から私は人の話を聞くようになりました。以前は人と話していても私が話していることのほうが多かったのですが、この時から私は少し話したら一度ストップして、相手の話をできるだけ完全な形で聞こうとするようになったんです。

 それは、自分が人を説得したり、誰かに影響を与える必要はないのだと考えるようになったからです。社会の中には『オーナーらしさ』とか『一家の主』といった、人それぞれが演じるべき役割があると思っていましたが、インターネットの世界にそんなものは一切ありませんでした。ここでは誰もが平等で、社会のシナリオに制限されることもありません。インターネットの普及に伴い、今後はこのような文化が主流になっていくと思ったので、その時から私は、自分に複数の側面があるかのように装うのをやめました。たとえ人と違っても、このままの自分を保てばいいと。自分の内側と外側を一致させたと言っていいでしょう。だから、たとえインターネットの文化になじみのない誰かが、私に社会上のシナリオを演じるよう求めてきても、私は逆に、この平等で制限の無い新しい文化を紹介したいと思ったのです」

 

 校長から学校に来なくてもいいとの許しを得たことで、15歳のオードリーは友人たちとIT企業を起業する。インターネット関連の書籍を出版したり、検索をアシストするソフトウェアを開発し、わずか3~4年の間に全世界で約800万セットを販売。2005年にプログラミング言語Perl>がバージョン5から6に移行するのに大きく貢献し、33歳で現場から引退した後は、米・アップル社や台湾の電気製品メーカーBenQの顧問を歴任。台湾のIT界に広くその名を知られ、「ITの神」と呼ばれるようになる。