久しぶりに河合隼雄さんの対談本を読みました。
心の動きについてしみじみ思うところがあったり…
また印象に残ったところを書きとめます。
ここは魔についてのお話です。ちょっと端折りすぎでわかりづらいかもしれませんが…
P54
川田 ・・・釈迦は菩提樹の下に座って、そこから禅定に入っていきます。そのときに、菩提樹の下に座らせないように、魔が働きかけてくるわけです。菩提樹の下に座ると仏陀になってしまうから、座らせないようにという働きです。菩提樹の下というのは、人間の肉を食べる鬼とか、そういう恐ろしいものがいっぱい出てくるから、そういうところに座ってはいけないと魔が言う。釈迦が、それらを乗り越えたときに、こんどは魔が姿を変えて、釈迦族の一員になって、うその報告を菩提樹の下に座ろうとする釈迦にするわけです。というのは、提婆達多がいま釈迦族の城に入って、王位を受けて王になってしまったと。なんじの宮内に入ってことごとくなんじの妃を納受し、なんじの父浄飯大王もまた牢獄につながれている、釈迦一族は全部城から追放された。それなのになぜそんなところに座ろうとするのかという魔の働きです。ユング心理学でいう影というのもこういう働きになってあらわれてくるんですね。
河合 ―いろんな見方ができると思います。もし釈迦がそれを本当のこととしながら、なお菩提樹の下に座ったとするならば、それは肉親の否定を意味するわけですね。つまり個人的な層で肉親を否定して、たとえ自分の妃なり父親がなんとなろうと自分は座り続けるということは、それによって個人的な肉親を否定し、その後に全人類の父になり、全人類の母になれば、より広い意味において、それが回復されるわけです。普遍的な存在となる以前に肉親を否定するという見方をしますと、面白いと言えます。また、逆の言い方をしますと、釈迦だから座りきれたわけで、普通の者はそこに座り続けると死んでしまう。あるいは家族が非常に不幸になるかもしれない。だから魔とも言えるんだけれども、非常に健全なる批判精神という言い方もできるわけです。両面を持っていると思うんです。
われわれは、健全なる批判精神と魔とが分からなくなって、変なところに座り込んで家に帰り損ねたり……(笑い)、菩提樹の下のつもりでバーに座っていたりするから間違うというふうに考えますと、その影の働きというものは非常に微妙なものなんですね。にわかに善悪は判定しがたい。
川田 ―釈迦にとってはこれは善ですね。
河合 ―そうです。そしてそれを乗り越えていくわけです。だからそういう意味からすると、魔の働きというのは非常に面白いですね。
・・・
川田 ―魔が釈迦の成道の際に全部生き返りますね。
河合 ―そういうことなんです。それと常に対決して、釈迦が自分のものとしているから生き返るわけですが、それを完全に排除したり、それに巻き込まれたりしたら、全部そこでだめになるわけでしょう。そういうふうに考えると、変な言い方ですけれども、釈迦を釈迦であらしめるために、どれだけ魔性の力があったかという見方で魔性全部を見ることができる。つまり影のほうからものごとを見るわけです。
・・・
河合 ―われわれの心の状態もそうでして、われわれの影の部分というのは排除されるべきものでなくて、変わるわけでしょう。
川田 ―そのあたりも意識を広げて、影を組み込んでいって、最終的なところにまで至るということ、つまり、自己の顕現に至るということですね。