世界というゲーム

こどもは古くならない。

 大EATは、すごいよく見つけるなあ!と思いました。

 

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 思えば、ずいぶん長いことリーダー役をやっている。「いやいや、そんなことしてないですよ」と謙遜したい気持ちはあるのだけれど、やっぱり、じぶんから「リーダーをやっている」と言わなくては、その役をやっている責任を果たせないようにも思う。

 リーダーだから、どれだけリーダーらしいかといえば、つまりは、まぁ、そんなでもないと思う。「オレの背中を見せている」とか言うつもりもないし、「率先して事にあたり、やって見せる」なんてこともない。ましてや、「群の中で、いちばん強い人間」であるはずもなく、「みんなに押し出されて先頭にいる」という覚えもまったくないんだなぁ。そんなことでいいのかと言われれば、ちょっとたじろぐ。でも、ふざけているつもりでなく、ぼくにはリーダーという自覚がある。ぼくが、この役をやっていたほうが、いい経過といい結果につながると信じている。自惚れているように見えるかもしれないけれど、そんなところで自惚れたいとも思ってはいない。もともと、得意なことだと考えていたわけじゃないし、リーダーになる訓練を積んで来たわけでもない。

 ぼくは、そういうリーダーをやっていることが、いちばんじぶんとチームを活かすと思ってやっている。「あいつのところに行くとなにかおもしろくなる」とか、「あのチームといっしょにやると、なにか起こりそう」「あの人といるのは、なんだかたのしい」なんてことは、一見、損やら得やらビジネスやらと関係なさそうだが、こういうことができていくうちに、いろんなことが、もっとできるようになるものだ。

 どうしたら、そういうリーダーをやっていけるか。あんまりはっきりした答えはないようにも思うが、あんまり「リーダー論」みたいなものにとらわれないで、みんなの「精神の自由」をどうやって確保するか。とにかくそこに重心を置くのがいいのではないかと考えるようになっている。いろんなタイプのリーダーがいるけれど、どうやら、ぼくは、そういうことを考えているらしい。

 

P252

「あの人、変わってるよね」という言い方は、すべての人類について成立する。世の中に、変わってない人間などいない。あらゆる人が、よく探せば、あるいは長い付き合いをしていけば、かならず「この人、変わってるわぁ」と思わせてくれる。

「んにゃ、あの人は変わってないぞ」というような、あなたの知ってる具体的な人がいるかもしれない。それは、まだ、「あの人」を十分に見ていないのだ。もっと見てたら、もっと親しくなったら、必ずや、「この人、変わってるわぁ」というところが、見つかるはずだ。

 だから、おもしろい、と言いたいのだ。人は、社会性というものを持っているし、それを身につけるための努力もしてきている。倫理的にどういうふうに生きたらいいのかについても、それなりに考えたりもしている。なるべく静かにしていよう目立たないようにしていようと、意識的にやっている人だっているだろう。が、残念ながら、そうはいかないのだ。外見やら、内臓のようすやら、感情の動きやら、どうにもならないあれこれが、やっぱり他人とはちがう。「えっ、この人、こんな……??」というところが、絶対にないなんてことは、絶対にないのである。

「あらゆる人は、変わっている」というのは、考えようによっては、ある種の諦観(あきらめ)である。そして、また、ある種の希望であり、世界というゲームのデザイナーにとっては、おもしろくもすばらしい真実である。そして、このことは、すべての人が知っているはずだ。

 

P273

 大EATと書いて、ダイエットと読ませるのではないか。

 

P294

 なんにも想像できないような未来に行くために、

 ぼくは生まれたところから離れたのかもしれない。

 そのあとやってきたことについても、

 予測できそうな道ができそうになると、

 なんとなく曲がったり、迷ったりしたがっていた。

「どうして、ここにいるのだろう」と、

 そんな問いかけがしたくて、生きて来たような気がする。