水中の哲学者たち

水中の哲学者たち

 信念が壊れるって気持ちいいですよね、と共感しつつ読みました。

 

P36

 ある小学校で「死んだらどうなる」というテーマで哲学対話をする。彼らは生まれ変わりについて議論を始め、生まれ変わったと言えるためには、どんな条件が揃ってなければならないか、あーだこーだと言いあっている。

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 小学生たちは、生きるとは何か、どのように生きるべきかについても言及し始めた。生きて、死んで、そして生まれ変わって、また生きる。そうするには、どのような状況や条件が考えられるのか。議論がゆらゆらと揺れている中、ずっと眉間に皺をよせて考えていたある女の子が、はいと手を挙げた。

「みんなは、生きるということがメインで、そのために死んだり生まれ変わったりするって言っているような気がするんだけど、そもそも、生まれ変わるということ自体が目的で、そのために死んだり生きてるだけだったらどうする?」

 それはまったく新しい視点で、そしてわたしも含めて、輪の中の誰も考えたことのない論点だった。彼女の提案は、一見「来世」や「輪廻」のことを言っているようだが、生でも死でもなくその転換自体が目的であるというものだ。ものすごく気持ちがいい、なんて理由だったら面白いなと想像する。魂だけとなった存在が、風呂上がりのビールを飲み干すひとのように、「この一回のために生きてる!」と快感に身を震わせる情景が目に浮かぶ。

「枠組みを変えてみるんだよ」と女の子はつづけて言った。

 またどこかでがっしゃんと、壊れるような音がした。

 わたしたちはわけのわからない世界に、意味づけをしたりレッテルを貼ったり、ヴェールで覆ったりして、何とか生き延びている。何年もかけて信念を構築し、それを前提にした上で世界を解釈したり、何かを創造したりする。にもかかわらず、哲学はあっという間に「前提を問い直す」などといって、積み上げたレンガを粉々にしてしまうし、他者はわたしの大切な意味づけを、デリカシーの欠片もなく剥がしてしまう。そう考えると、哲学対話とはわたしたちを自由にするどころか、立っている場所を脅かす兵器でもある。だからこそ、哲学や他者によって問い直しを迫られたとき、わたしたちは自分自身が壊れるような感覚を抱く。

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 しかも、哲学はわたしたちの目を見えるようにするどころか、より見えなくする。近眼のひとが眼鏡を外して見るように、ぐねぐねと境界が混ざり合い、わけのわからない世界が露わになる。こんなところで自分は生きていたのかとびっくりする。

 だがたまに、ぐにゃりとした秩序のない世界を、平気な顔をして歩き回っているひとがいる。彼らにはレッテルや意味づけ、もっと言えば世界に対する偏見がなく、ただただ自然に、穏やかな表情で仕事をしたり、コーヒーを飲んだり、眠ったりして、生活を営んでいる。

 ある夜、知人4人で食事をしていたとき、その中に福岡出身のひとがいた。・・・九州の話で盛り上がる。すると、ずっとにこにこと黙って話を聞いていた1人が、このあとの予定を尋ねるような気軽さで自然に問いかけた。

「九州って四国?」

 思わず絶句してしまう。「違う」と言うので精一杯だ。このひとはそれを知らずにどうやって生きてきたんだろう。焦るわたしたちと対照的に、彼はふむふむ、と興味深そうに話を聞いている。違う。もっと深刻に受け止めて欲しい。福岡出身の知人は、とうとう「古事記をもとに考えれば、『四国』と表現することも可能かもしれない」など、なんとか合理化を試み始めた。無理がある。

 だが、九州や四国、東北などの区分は、わたしたち人間があとから勝手に決めたものだ。そしてそれを「知っていなければならない」と勝手に思い込んでいるものだ。わたしは、自分の前提に気づかされるとともに、彼の無垢な世界とのかかわり方に憧れた。「福岡って四国?」ではなく「九州って」という問い方もいい。彼は普段から、ジンジャーエールを自分で買ってきて、飲んだあと驚いた顔で「ジンジャーエールの味がする」と言うひとなのだ。

 世間ではそういったひとたちのことを「天然」などと名付けて、何とか型に当てはめようとする。しかし彼らはその言葉からもするりと抜け出して、楽しそうに走り回っている。わたしがぐにょぐにょした世界で身動きを取れずにおろおろしている間に、気にせず前にずんずん進んで、こちらにおーいと手を振っている。凝り固まったわたしを粉々に打ち砕いておいて、けらけらと笑っている。

 そしてそれがわたしには、なぜだかとてもうれしいのだ。

 哲学対話をしているときも、同じような喜びがある。わたしの硬直してしまった信念を誰かがあっけなく壊してしまう。こわくて、危なくて、うれしくて、気持ちがいい。・・・

 そうしてまたわたしたちは、新しくまた何かをつくりはじめる。

 ガシャンという音は、わたしが壊れる音である。だが実はそれだけじゃなくて、わたしができあがっていく音でもあるかもしれない。崩れてしまったわたしの部分に、他者の考えや言葉が、パーツとなって飛んできて、わたしの身体にフィットする姿を想像する。ガシャンと音がする。気持ちがいい。そうか、これは、生まれ変わりの音だ。

 ああ。この1回のために生きてる。

 

P59

 ひとは時に、周りはみんな同じで、みんなわかりあっていて、共感していて、自分だけがそこに馴染めないと思っている。だが本当は、世界は曖昧で、不確実で、複雑で、そこにひとびとは、なんだかんださみしかったりわからなかったりイライラしたり笑ったりしながら、生きている。「わたしだけ」がこの世には無数にあって、それぞれさみしくて、バラバラで、めちゃめちゃで、そういう意味でわたしたちは、平等である。

 哲学対話をしていて、対話が居心地の悪い同調や、いたたまれない孤独につつまれているとき、わたしは願う。もっともっとバラバラになろう。バラバラになって、ちゃんと絶望しよう。もともと世界はいつだって、多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ。その意味でわたしたちはみんなみじめで、みんな平等にひとりぼっちだ。

 でもだからこそ、わたしたちは困ったねえ、と笑いながらカフェオレを飲むことができる。

 ある企業で、「はたらくとは何か」というテーマで哲学対話をしたとき。参加者のある女性が、話しながらぽろぽろと涙をこぼした。自分のこれまでの思いや、わからなさや、さみしさが、どっとあふれ出たのだ。だが誰も「わかる」とは言わない。わたしたちは互いに、誰一人わかりあうことはできない。そのことを、誰もがわかっている。その事実が、わたしたちをやわらかくつなぐ。

 わたしはあなたの苦しみを理解しない。あなたの悲しみを永遠に理解しない。だから、共に考えることができる。彼女の涙が、しんしんと降り注いで、気がつけばわたしたちは水中にいる。共に息を止めて、深く潜って、集中する。

 わたしたちはバラバラで、同じ海の中でつながっている。

 

P248

 心に残る缶コーヒーのCMがある。恋人のためにパスタをつくる竹野内豊扮する男。だが女は怒ってるようでパスタも見ずに「さよなら!」と出て行ってしまう。あわてて男は追いかけるが、女に「さっき、一瞬パスタどうしようって思ったでしょ」と責められる。

 CMを見て、ワッこれわたしだ、と自分を発見したような気がした。だってわたしは、あるひとが「このあと夜会えない?相談があるの」と思い詰めた様子で言うのを、心配よりも先に「やば、明日早いんだよな」と考えたことがあるし、泣きながら深夜に電話をかけてきたひとの話を聞いて、うんうんなるほど、と適当な相づちを打ちながら授業のレジュメを作っていたこともある。

 でも確実に、わたしにとって彼らは死ぬほど大切で、竹野内豊にとっても彼女は唯一無二のひとなのだ。なのに、なんでだろう。

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 小学生の哲学対話っていいですね、子どもたちは本質的なことを言うもんね、彼らは純粋ですばらしいですね、とよく言われる。たしかに彼らはすばらしくて、すごくて、哲学者だ。それは間違いない。

 でも子どもたちは別に純粋無垢なわけじゃない。本質的なことを言うわけでもない。突拍子もないことも言うし、間違ったことだって言う。

 彼らはきちんと、無知で、蒙昧で、傲慢で、いじわるで、小狡くて、見栄っ張りだ。

 子どもたちのそんな一面を見るたびに、ああわたしたちって人間だね、多面体だね、しょうがないね、と笑ってしまう。・・・お互いを全面的に受け入れなくてもいいから、わたしもあなたも多面体だねということを飲み込もう、と思う。というか、まずは飲み込むのが哲学対話なのかもしれない。