五蘊とは

現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
色即是空 空即是色 の「色」とは五蘊を指しますが、その五蘊とはなにかという説明です。

P27
 五蘊とはなにか
 ・・・五蘊というのは、・・・私たちの身心を構成する五つの集まり、色、受、想、行、識を意味します。色というのは「ルーパ」のことですから、物質的現象、もっと平たく云えば「形あるもの」、つまり私たちに準えればこの「からだ」のことです。残りの四つがその精神作用ですが、受というのは外界と触れて何らかを感受すること。具体的には眼・耳・鼻・舌・身・意という「六根」が色・声・香・味・触・法という「六境」を感受する、その感覚のことですよね。
 眼に見えるものが「色」、耳に聞こえるのが「声」、鼻に匂うのが「香」、舌に味わうのが「味」、身(皮膚)に感じるのが「触」、意に抱く思いが「法」という具合です。「法(ダルマ)」は真理、法則、実在、教え、モノなど、いろんなレベルの意味を持ちますが、ここでは「思い」という意味で受けとめてください。
 五蘊の三番目は「想」ですね。
 六根が感受したものは次第に脳によって情報化されていくわけですが、たとえば眼から入ったすべてを我々は見ているわけじゃありません。「あ、カラスだ」とか、「あ、赤い服だ」と、まとまって知覚したことだけが認識にまで進むわけです。
 ・・・そんなふうにカラスとか赤い服と知覚されることが「受」の次の「想」になるわけです。
 これは通常、哲学用語で「表象」と訳されていますが、つまり受け取った情報が、脳内の何らかのイメージを引き寄せ、それに合致することです。表象とは、ですから脳内にできあがる具体的なイメージと云えるでしょう。・・・脳内に潜在していた「象(かたち)」が意識に表面化することを「表象」というのです。
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 私は感覚と知覚という言葉を区別して使っていますが、それは感覚が受けとめたなかで表象化され、意味のある初期の情報になったものが知覚だと思うからです。いわば感覚が「受」、知覚が「想」です。
 そして知覚されたら今度は四番目の「行」が芽生えます。これは意志のことですね。「山」なら「登りたい」、「赤い服」なら「着たい」というような意志に繋がるわけです。
 これは実際にそうするかどうかとは関係ありません。「行」とは、特定の方向に気持ちが志向することです。
 そうして六根から入った情報は、表象や意志を伴ってすべて五番目の「識」というものになります。「行」で芽生えた意志を、そのまま実行しても、あるいは事情によってそうしなくても、脳にはなんらかの認識が芽生え、蓄積されます。これが「識」です。
 「識」というのは、人間が受胎の瞬間から持っているもので、その後の見聞や体験でどんどん複雑に増殖していきます。あらゆる知識や認識の総体と考えていいでしょう。単純な記憶も含みますが、記憶しているという意識さえないものまで含んでいます。
 云ってみれば、受・想・行・という作用をする主体も、この「識」なのです。
 以上の、「色・受・想・行・識」という五つのはたらきの集合(五蘊)が我々人間なのですが、それが全部「空」である、と私は実感しちゃったわけなんです。
 ちなみに、どうして私たち人間を「五蘊」と表現したかというと、これらはみな、誰もが自分自身だと錯覚してしまう事柄だからです。体も感覚も表象(知覚)も意志も認識も、どれも自分だけの確固としたものだと思いやすいでしょう。「これが私だ」と錯覚しやすい。でもそれは本当は違う、と云いたいわけなんですね。
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 要するに、ここでは今申し上げたような「五蘊」がみな実体ではなく、関係性のなかで仮に現れた現象だと思っておいてください。