質を知覚する

エンデと語る―作品・半生・世界観 (朝日選書)

 この辺りも印象深かったです。

 

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子安 私、ずっと気になっていることがあります。文学の読みのことで、解釈ではない、体験だ、とエンデさんがおっしゃっているのを、・・・聞いていて、それに同感してきたつもりでいる私ですが、・・・私は、やっぱりいちおう「ドイツ文学者」が職業なので……けっしていい意味でも悪い意味でも典型的な学者ではないつもりですが、それでもこの職業をやめないかぎりどこかしら文学作品の解釈をしなければならない義務感のようなものがつきまといます……。

 

エンデ お答えしましょう。それはこのテーマだけで半日ついやさなければならないほどの大問題です。・・・だいたい詩だの小説だのについて、人に何かを教えることができるのでしょうか?文学の授業―それは、ある意味では教えることの不可能なものを教えること、となります。つまり、「質(Qualität)」の知覚体験を教えることです。けれども、それは可能です。では、どんなふうに?

「質」とは、どこに知覚できるのでしょう。いや、その前に「質」とはいったい何ですか?・・・「質」を言葉で言いかえられますか?・・・

 言えないでしょう。言葉ではぜったいに言い表せない。でも、それを教えることはできるのです。それはもっぱら「質」をもった芸術そのものにふれることによって可能になります。・・・これにふれて、ふれて、ふれぬくことによって「質」の知覚が生まれます。「質」と「質」との微妙な差異を感じわける力も、人間のなかにめざめさせ、みがきあげることができます。

 ・・・

 ・・・今日ではレトリックというのは、詭弁を使ってでも人をどうやって説得するのかの語術だというふうに思われているけれど、ギリシャ時代には、対象の「質」について、それと全く劣らない「質」をもつ話をすることだったのです。・・・だから、「レトリック」は、およそ建築について、詩について、音楽について、舞踊について、そのいずれの対象とも同等の質において語ることができる、そういう力をつけさせる科目だった。質については、質によってしか語ってはならない。議論で論じてはならない。どれほど周到な論でも、論じているかぎりは、ひとつの絵が、別の絵よりもいいとか、悪いとかいう違いを言い表すことができない。あるすぐれた絵についてどう語るか。その語っているやりかたが、対象である絵と同等の質をもつことによってのみ、その絵の質の高さを言い表わすことができるのです。

 この力を現代の私たちがまったくなくしてしまったのは、過去何世紀かのあいだに、私たちの思考から「質」の概念が抜け落ちてしまったせいなのです。・・・

 ・・・今なお失われていないと思われるのは、日本の禅仏教などに通じる何かです。禅というのはそもそもほかならぬ「質」の意識ではありませんか。「あるがまま」とか「現実そのままのなかにはいりこめ」といいますね。この世の現象すべてはそれぞれの「質」をもっている。あるがままの質である。この植物、この花、この動物、この石……みんなそれぞれひとつの「質」をもっている。その「質」を知覚する、徹底的に知覚する―ね、これはもう禅でしょう?「質」は知覚の彼方に離れているのではない。彼岸のものでも此岸のものでもない。「質」はたんに物質的でもなく、一元的に精神レベルのものでもない。主観でも客観でもない別のもの―「質」は抽象的なものではない、五感でたしかに知覚できる、それでいて同時に別の何かだ。およそあらゆる時代にあらゆる民族の文化で問題だったのはこの「質」です。それ以外の何ものでもありません。

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 ・・・今日、世界でその実例となるような文学は、まことに少なくなりました。が、芸術は、じつはみな「質」で勝負しなければならない。芸術が「質」という手段で世界のことを語るならば、それはおのずと人びとを納得させる。見る人、読む人が事前に勉強しておいたり、精神の修業をつんでおいたりする必要はなく、「質」をもった作品は、どんな人間にもただちに訴える力をもつ。いや、なまじっかの解説や評価によってあらかじめ距離をつくられたりするよりも、直接対象と向きあう方が、人間の本性にふさわしいのです。

 芸術について言葉をろうするというのは、きちがいじみるほど困難なことです。ひとこと言うたびに、的からそれてしまいます。たいてい言葉が多すぎて、ほんとうは真実がすぐそばにあるのに、ひどく遠くにあるかのように聞こえてしまうのです。・・・

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 別の例を出しましょう。イタリアに住んでいたころ、あるテレビのシリーズものに「Jo e……(私と……)」というのがありました。・・・毎回俳優、作家、哲学者……そのほかいろいろな人が登場して、あなたの好きな芸術作品は?という問いに答える番組でした。それから作品の実物がテレビに映されて、当の作家や俳優は、なぜそれが好きなのか、何が特別気に入るのか、といったことを語りました。・・・人間というのは、自分が愛するものについて語り出すと、しかもその愛する対象がほんとうにふさわしいものだとすると、ほんとうにみごとに語ることができるものです。・・・

 私に、たとえばカラバッジオの絵をわかるようにしてくれたのも、じつはこの番組だったのです。・・・

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 ・・・私は、ずっとカラバッジオを好きになれませんでした。あいつは表面的な「効果ねらい」だと思っていました。それから、あの「私と……」の番組を見た。画面で、だれかがカラバッジオの絵について、ひどく興奮して、熱烈に語っているではありませんか。それを見ていて、とつぜん私の目からウロコが落ちたのです!そのとき、私には自分のことがわからなくなりました。俺は、いったい目の見えない人間だったのか?この人に見えたものが、俺には見えなかったなんて?私にとって、その日は文字どおり「カラバッジオ発見」の日となりました。・・・