さよなら行脚

死は終わりではない

 あちらからの働きかけ、こちらの状態や反応など、興味深く読みました。

 

P42

 死んでからのぼくは、愛する人たちと簡単につながれるようになった。

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 ぼくはみんなの感情を感じとれるし、考えていることを聞くこともできる。

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 ぼくがやったのは、そばに座って話しかけてみるということ。こっちが心を込めて伝えると、相手もしっかり受け止めてくれた。何もかもこれでいいんだと、言葉ではなく感覚でわかってもらえた。ぼくが一人ひとりに伝えたのは、「愛しているよ。ぼくはこの世からいなくなるけど、大丈夫だから」ということだった。

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 最初に、きょうだいたちに別れを告げた。

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 ぼくは、楽しかった思い出をとおして姉に近づき、となりに座って、まさに姉から教わったことを話して聞かせた。

 そう、これはぼくが別れを告げにいったきょうだい全員にしたことだ。

 つまり、生前ぼくがきょうだいからもらったものをお返ししたわけだ。

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 母を抱きしめて、「ぼくはそばにいるよ。無事だよ」と言おうとしたけど、心ここにあらずの母は、ぼくの言葉を聞くことも、ぼくの存在を感じることもできなくなっていた。

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 ・・・ぼくが母に近づいて別れを告げようとするたびに、恐怖が伝わってきた。そこには無力感も入り交じっていた。

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 人が目の前の現実と調和している、つまり「軸がぶれていない」とき、その人の感情は一本のパイプの中を流れている。すっきりシンプルに。でもぼくの死後、母の感情のパイプは何ヵ所も水漏れを起こしていて、ぼくには母のパイプとつながって水漏れを直すことができなかった。母はダダ漏れになっている感情を使ってぼくの死を理解しようとしたけど、手のつけようがなかった。

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 それと同時に、自分の子どもを救えなかった母親としての、とてつもない悲しみと苦しみとも向き合わなくちゃならなかった。

 死んでからのぼくには、母が子どものころから重ねてきた苦労のすべてが見えた。

 この先、母を待ち受けている苦労も見えた。だからこそぼくは、自分の力で母をもう一度元気にできないかと思った。でもいまは待つしかないようだ。

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 ヒューストンにいる家族へのさよなら行脚が終わると、ぼくは母方の祖父ポッピのことを考えた。ポッピは、ぼくがいまこうして話しているような「死後の世界」的なことは、絶対に信じないタイプの人だった。しかも、とっくの昔に死んでいてもおかしくないくらいの高齢だ。

 ぼくは、そんなポッピに、死後の世界を信じないまま死んでほしくなかった。祖父にこんな話ができるのはぼくしかいない。・・・

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 ・・・居間の椅子に座るポッピの前に立ってみる。でも、ポッピにはぼくが見えない。しばらく立ちつくしていたけど、やっぱり気づいてくれない。そこで、ポッピの記憶に一番強く残っている幼いころの姿になってみたら、ようやく気づいてくれた。

 ポッピは、まずぎょっとして、つぎに怖くなり、そのうち混乱した。感情がつぎつぎと心をよぎっていくのがわかる。

「おれは頭がおかしくなったのか。こんなことあるはずがない。おれは死ぬのか、死ぬのか?」

 ・・・子どものころのように、・・・ポッピのひざに乗って、目をのぞき込んで言った。

「何もかもうまくいってるよ。愛しているよ」

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 言葉は返ってこなかったけど、ポッピの口から音らしきものが漏れた。・・・

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 そのあと、ポッピは、ぼくの母に電話で一部始終を話した。

 母は、ポッピがスピリチュアリティに関してはとてつもなく頑固なことを知っていた。

 だから、そんなポッピの口から話を聞いたとき、母の心に初めて希望の光が差し込んだ。

 もしかして息子は永遠に消えてしまったんじゃないのかもしれない、って。