ようこそアラブへ

ようこそアラブへ

 こちらもイスラム社会のお話、とても興味深かったです。

 

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 私は文化センターを主宰しながら、よく怒る日本人に出会ってきました。ある活動を行うとき、計画がずれたり倒れたりしたら、一生懸命頑張っていた分だけ怒らないではいられない人たちです。幼少から自分を律して厳しい作法や練習を重ねてきたせいで、流動性そのものを理解できません。アラブ人が流動性の中で状況判断して生き残っている姿勢が、とても理解できないのです。

「いい加減で、無計画で、怠惰で、人任せで、無責任」というアラブ人への形容を、私は今まで何度となく耳にしました。そうした人たちは、アラブの国に住みながら自分をアラブ流には変えられないし、変えるのは退化だと信じています。怒りを共有できる仲間とだけ親交を深めて、批判を続ける人々は、最後までアラブ人の素晴らしさを学ぶことはできません。冷静沈着な態度や、部族を率いる底力、他人を責めたり追い詰めない寛容さ、運命を受け入れる覚悟、未来に託す柔軟性などに気付くことはできないし、そこから学ぶこともできないのです。

 アラブ人は、日本人のもつ用意周到な準備や努力を非常に尊重し、学びたいと考えています。他人任せにしない態度や、常に自分が責任をとる姿勢、他人と協調していく努力を、世界には稀な素晴らしい資質だと考えています。でも近づきたいと思いながら、同じように生きたらアラブ社会では生き残れないことも知っています。アラブにはアラブの流儀があり、環境も政治も人間の気質もまったく違うことも理解しています。でも憧れ、そこに近づきたいと願っています。私たち日本人もアラブ人の強さや優しさ、逞しさを尊重し、荒い環境に生きる知恵を学び、理解していく姿勢を示すべきです。「相手にならない」と呆れ、軽蔑すれば、同じことが返ってきます。小さな島国の小さな価値観や思想だけで生きるとしたら、世界を見る目は失われてしまいます。

 ・・・ダメ印や合格印を押すのは簡単ですが、人間社会の成り立ちの不思議を知り、その得手・不得手から、知恵や価値観を学ぶのはおもしろいと私は常に考えています。

 

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 アラブ人の家族観は、宗教が深く影響していると書きました。イスラームで最も立派な人間とされているのは、「自分の家族に優しい人」です。

 もともとムスリムには自己否定という概念がありません。神が自分を創りこの世に送ったことには必ず意味があり、すべての生は神の慈しみを受けています。自分の誕生・育成を助けた両親に、感謝し孝行することは、子どもとしての大切な務めです。また同様に、大人になり結婚して子どもをつくり、愛し養育していくことも大きな務めです。家族と面と向かって反発したり、家族を捨てたり、面倒を看ないでいることは、人間性から大きく離れた罪深い行為とされています。(イスラームでは出家を禁止している。家族と共に生きて、宗教上の義務を務めることとされている。)

 先進国出身の人間の多くは、家族がそれなりに「生産的」であることを前提に考えています。子どもなら年齢に応じて勉学したり手伝ったり、若者なら働くのが当然です。老人だって自分の身の回りの世話は自分でしてもらわなければという考えは、多くの先進国社会に根付いています。五体満足で教育も終えながら家でのんびりしている人間は、すぐにごくつぶしの烙印を押されます。私自身も、次男が大学の勉強以外の仕事をいっさいしないことに、つい苛立ったりしてしまいます。

 しかしアラブ・イスラーム社会では、生産性があろうとなかろうと、神から生を受けたものとして、誰でも同じように大切にされます。生産性が人間の価値を規定する大きな要素とは捉えられていないのです。

 もともと、二十世紀の産業革命以降に現れた生産第一主義、そこから発展した効率第一主義は、アラブの厳しい環境とは相容れないものです。・・・この厳しい灼熱の環境下では、放牧や漁業を中心として社会を支えてきた労働が、時間や地道な努力と関連して生産性をもたらすとは限りません。かえって労働に長時間をかければ、自分の身体が壊れてしまいます。さらに、労働そのものに価値を置いて暮らせば、健康とともに、最も大切な人間性を失う恐れがあります。その人間性なるものが、「家族を大切にすること」、「親を敬い孝行していくこと」だとイスラームでは教えています。

 イスラームの教えで私が「合理的」と感じるものの中に、五行のひとつである「喜捨」についての教えがあります。喜捨は一年に一度の大切な義務ですが、まずは困窮している自分の家族や親族を助けなければなりません。身近にいる困窮者をそのままにして、他者に喜捨をし徳を積もうとしても、義務を果たしたことにはならないのです。